時空を超えた文化の輪

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2018年7月11日

 

ボロ・手鍬・打製石斧 
by: 蝶谷 正明(セブ日本人会)

庭の手入れをしているボーイの手元を見ると木の取っ手のついた鉄製の道具を使って耕したり、穴を掘っています。タガログでボロと言い、鉄の部分は先端に刃がついています。
数十年前の学生時代の思い出がよみがえってきたのには、我ながら驚きました。当時、縄文時代中期という4,500年前の社会はシカやイノシシを狩り、魚を捕まえ、木の実を拾っている貧寒としたイメージでした。関東から長野、山梨方面のこの時代の遺跡から大量の打製石斧が出土することは広く知られていました。研磨した磨製石斧は確かに木を切り倒す道具になりますが、打製石斧の使い方はよくわかっておらず、山芋でも掘ったのではないかといった認識でした。しかし、科学技術の発達がこの謎の石器の用途を解くヒントを与えてくれました。当時の土壌から外来種の米、麦、粟、蕎麦などの花粉が大量に発見されたのです。たまたま風に吹かれて飛んできたというレベルではなく、明らかに栽培されていたと推定される量です。それまでは弥生時代になって日本に高度な技術を伴う水稲農耕が大陸から伝えられたと教わっていましたが、それよりも数千年早く縄文時代に農耕が日本の地に根付いていたことが証明されました。畑を拓き、栗林の手入れをし、季節ごとに主食となる炭水化物を得ていました。20年ほど前に発掘され、巨大なやぐらが復元された青森県の三内丸山遺跡などは、まさにその頂点に位置する大集落です。この用途不明の粗末な石器は「斧」ではなく「鍬」のように土を掘るのに使われたと推定されています。畑を耕し、竪穴式住居の穴を掘り人々の生活になくてはならない道具だったのです。後日談があります。学生時代に台湾中部玉山(戦前は新高山)中腹の台湾原住民の部落を訪れたことがあります。戦後初めての日本人だということで大歓迎されました。昭和初年までは更に高地で伝統的な狩猟と農耕を行っていた人たちです、村はずれの段々畑を歩いているとポツンポツンと石器が落ちています。よく見るとまさに縄文中期の打製石斧と瓜二つです。胸をドキドキさせながら古老に聞いてみると日本語で「手鍬(てぐわ)」との答え。現在の鍬のような柄などは付けずに手で握って使ったこと、ほんの数分で完成する作り方の実演までしてくれました。材質は石か鉄の差はありますが、その形状や使い方はセブの道具と同じです。農具を通してフィリピン・台湾・縄文日本がつながりました。普段何気なく見ているものが私に時空を超えた文化の輪を想起させた一瞬でした。

セブでは深い穴を掘る時に木の棒にこの鉄製品を取り付けた「堀棒」が広く使われている。木の先端をとがらせただけのものはニューギニアやポリネシア、東南アジアで農耕や穴掘りに広く使われている。日本で山芋堀に使う道具もこの一連の流れを汲んでいるのかもしれない。

 

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