1970年代のマカティ – 最終回

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2017年3月22日

急速に発展するマカティに期待と寂寥感を…
by 高木 妙子

1970年代のマカティ。正面に見えているのがかつてのマンダリンホテル(現在は解体され新しいビルが建設中)。


 
___マカティ通りの向かい側にはアヤラ・ミュージアム、グリーンベルトの公園(初めはネットを被せて鳥を放ち、小規模な自然公園が造られたが、維持できなくなり自然だけが残された)やショッピング・アーケード、映画館などができた。
___“ランド・マーク”のデパート、コマーシャル・センターの建設が進められ、最後にドームで被されて、ルスタンスからその他すべてのビルが大きな屋根の中に収まり、今の「マカティ・コマーシャル・センター」が出来上がった。
___以前は火力発電所(パワープラント)があり、1974年には大きな爆発を起こしたこともある重油タンクや煙突が並び、常に蒸気機関車のエンジンのような発電の音が大きく響いていたベルエアー・ビレッジの裏側。住民がその危険性、煙による公害、騒音などで反対運動を起こしたりしていたが(発電所側は住宅が出来る以前から発電所はあったので、そのような場所に住宅地を造った方が悪いと言っていた)、近年ロペス財閥が開発し、高級高層マンション、アテネオ大学大学院、パワープラントのショッピング・センターなどと、昔の姿が想像もつかない、すっかり近代化されたモダンな「ロックウェル・センター」へと大変貌を遂げた。
___軍の基地やパブリックのゴルフ場があったボニファショでは、基地の一部が民営化され、ゴルフ場も潰されて新興都市が生まれた。開発はゴルフ場にあった樹齢何百年という大きな木々をすべて切り倒し、大きな通りが縦横に通るサラ地と化した。
___ここに今は地区によって高層マンションの並ぶ地区、学園地区(インターナショナル・スクール、日本人学校、ブリティッシュ・スクールなど)、レストラン地区、ショッピング地区など、現在も次々と建設が進んでいる。
___アヤラの地主であるアヤラ財閥は当初の契約で、25年後には建て直すことを謳っていたと聞くが、まさに先を見たアヤラらしい契約である。25年位すれば建物は古臭くなってきて、新建材も開発されるという都市開発計画である。
___マカティは大きく変貌し、新建材の高層ビルのガラスが、太陽に照らされてきらきらと光っている。高級化が進み、有名外国ブランドの店も並び、金持ちは前のように香港に買い物に行かなくても、フィリピンで買えるようになった。これはかつてラモス政権下で、フィリピンの有産階級がクリスマス時期になると香港に買い物に行き、香港にフィリピンの大切なドルを落としていたことを鑑みて造られたと聞く。
___今や開発は、かつてはマンゴ―畑の丘だったアラバンをはじめ、グリーンヒルズ、サンファン地区、マンダルヨンなど郊外へ郊外へと進出していっている。現金収入の少ない地方からの移住者は今も後を絶たず、都市人口もスラム人口も増え続け、都市化、近代化、高級化はますます進んでいる。
___一方、マカティではインターコンティネンタル・ホテルやマンダリン・ホテルなどが消え、マニラなどにある古い植民地時代の面影を残す歴史的に貴重な住居や建物が老朽化と共に壊され、次々と建て替えられ様変わりしてきている。
___10年後、20年後のフィリピン、そしてマカティはどのように変貌していくのであろうか。楽しみでもあるが、昔の思い出の姿が消えていってしまうことは寂しくもある。

1970年代のエドサ通り(右上は現在のドゥシットホテル)

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