1970年代のマカティ – 第3回

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2017年3月25日

ルスタンスの後ろで靴を売っていた
by 高木 妙子 

マカティのコマーシャル・センターは今では1つのドームに包まれ、広大なスペースと化しているが、当時はパラパラに独立した建物が建ち並んでいた。
エドサ(Edsa)通りからマカティ通りに向かって順に、インターコンティネンタル・ホテル、駐車場、ルスタンス、その横には路を挟んで、金ぷらレストラン、その先にアンヘレス・アーケードがあってエスペランサという花屋があった。ルスタンスの後ろにはSMシューマートの小さい建物があり、その名の通り靴を売っていた。その後ろにはやはりSMの車のアクセサリーと修理の店、免税店などが並んでいた。そしてアヤラ通りとマカティ通りの角のカーブ(現在シャングリラ・ホテルがある所)にはアーケードがあって、端から本・文房具の「アレマース」、床屋、スペインの揚げ菓子チュロスやエクレアが人気だったケーキと喫茶の「ダルシネア」、中国式の絨毯「タイピン・カーペット」、電気製品の店「アンソン」などが並んでいた。そしてその先には「リサール・シアター」という当時のマカティ唯一の映画館兼劇場があった。
今のランドマークがある所には、四角くどっしりした「マラナオ・ビルディング」があった。これは3階建てで、各階にPXの小さい店が並んでいて、外国からの食料品、衣類、雑貨、カリフォルニア米、日本の醤油などが並んでいた。
マラナオ・ビルディングの前には民族ダンスなども見られ、フィリピンに来たお客様は必ずといってよいほど連れて行く、フィリピン・レストランの「スーロー」、その後横には初代「ジェイド・ガーデン」中華レストラン(現在グリーン・ベルト内)となった平屋の建物が細長く横たわっていた。
現在のランド・マークの前、グロリエッタの外側には大きな「マカティ・スーパーマーケット」があった。これは後に火災に遭い閉鎖してしまい、アラバンが開発されたときにアラバンのショッピング・センター内に営業再開した(なぜアラバンの中にあってマカティなのか?と思われた方もあると思われる)。当初あった建物はそのくらいで、その他周囲はすべて草原であった。
アヤラ通りも殆どが草原で、当時あったのはエドサ(Edsa)通りから現在もある「マカティ・ガーデンクラブ」、「ウルダネタ・アパートメント」、「ヒラルミ・アパートメント」(現在のディスカバリー・プレミア)があるだけで、後は草原であった。
パサイ通りのサン・ロレンソ・ビレッジ側は、今のようなレストランなどは全く無く、すべてサン・ロレンソの外側の住宅地であった。
またベルエアー・ビレッジは今のジュピター通りまではビレッジの中で、塀の中に入っていた。その外側の、今ではビルディングが並ぶブエンディア通り(現在のヒル・プヤット通り)側は、今もエドサ通りの角にあるシェルのガソリン・スタンドがあるだけで、ヤマハのある前レポソ通りまでが全て草原であった。
国際会議が開かれ、海外からのお客様を迎えるためのホテルが続々と建設された1976年から77年にかけて、「日航マニラガーデン・ホテル」、「ペニンシュラ・ホテル」、「マンダリン・ホテル」が相次いで建てられた。ホテル建設はマカティだけでなく、マニラでも「フィリピンプラザ・ホテル」、「ラマダ・ホテル」などがこの時に軒並み建設された。
「クワッド(QUAD)」の映画館などもこの頃造られ、マカティ・コマーシャル・センターの大きな「様変わり」が始まった。アヤラ通りには「トスカニー」、「ツイン・タワー」、「リッツ・タワー」などの高級マンションが建ち、高層化が始まった。後に更に高層化・高級化した「パシフィック・プラザ」、近年はディスカバリー・プレミア(Discovery Primea)が建設された。
 

1960年代のインター・コンティネンタル・ホテル。再開発のため解体された。写真の駐車場の場所には現在、グロリエッタ5がある。


 

1970年代の「クワッド」の映画館


 
(参考資料:著者掲載
「雑誌・FILIPICA 54」)  次回へ続く
 
◎ Navi Manila Vol.29 より

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