戦中のマニラに滞在した
日本人高等文官や学者ら
リサール像の前で記念撮影する法学者、
末川博氏ら「比島調査委員会」のメンバー

リサール像の前に立つ末川博氏(左から2人目)=「極秘比島調査報告(龍渓書舎、1993年)」より

リサール像の前に立つ末川博氏(左から2人目)=「極秘比島調査報告(龍渓書舎、1993年)」より

1942年1月、マニラを占領した日本軍はその翌年、ラウレル大統領らフィリピン人の政治家を前面に立てた独立政府を誕生させる。それに先だって軍部は、日本の学者や高等文官(今のキャリア組)を動員、「比島調査委員会」を組織して綿密なフィリピン統治の研究と調査を行った。
戦後、立命館大学総長を務めた民法学者の末川博氏もその一人だった。写真はルネタ公園のリサール像の前で記念撮影をする調査委員会の面々で、左から2人目の白い開襟シャツ姿が末川氏。
軍の「極秘」扱いだった「比島調査報告書」は戦後散逸し、所在不明のまぼろしの書とされてきたが、偶然にも立命館大学の末川文庫所蔵図書の中で見つかり、1993年に復刻版が出版された。
末川氏は戦後、調査委員会やマニラについての多くを語らなかったらしい。自叙伝、「彼の歩んだ道」(岩波新書、1973年版)には「フィリピン」が1カ所だけ出てくる。それは戦前にアメリカ留学した時、ハーバード大学で助教授をしていたセイヤー氏の自宅に招かれ昼食をごちそうになったこと、そしてセイヤー氏は後に「フィリピンの高等弁務官(ハイコミッショナー)になった」という部分である。セイヤー氏は日本軍のマニラ占領まで同職にあった人物で、その約1年後に末川氏ら調査委員会が軍の後押しでフィリピンにやってきた。
末川氏は山口の田舎出身で小農のせがれだったが子供のころからずば抜けた秀才で、奨学金をもらって三校、京大法科へと進んだ。戦争までは京大法学部の教授職にあったが、満州事変に始まる軍部の台頭や文部当局の大学自治への介入に抗議して、同僚の教授ら十数人と大学に辞表をたたきつけた。その数年後に軍からの要請で調査委員会に加わったのである。
法学者であった末川氏は、フィリピンの法制調査を軍から期待され50数日間マニラに滞在した。しかし、調査委員の中でただ一人、報告書を提出しなかった。
末川氏とマニラを結びつけるものは上の写真以外ほとんど残っていない。