フィリピン留学記    アダムソン大学 須貝京子
map私は早稲田大学に在学中、とあるサークルに所属しており、そこでハンセン病という病気を知りました。ハンセン病は感染症であり、肌がただれ、見た目が醜くなることから人々に恐れられ、差別されたそうです。かつては処方する薬がなく、病にかかったら隔離施設に入れられ、そこでの生活を余儀なくされました。病の感染経路がはっきりされていなかった時代には、遺伝病とも言われて恐れられ、家族が感染すると、村八分を恐れ一家心中を図ることも珍しくなかったそうです。そんな歴史を知り、この歴史は知っておかなければならない、学ばなくてはならない、そんな思いが掻き立てられ、フィリピンに来る前はハンセン病の勉強会に参加したり、中国のハンセン病隔離村で行うワークキャンプに参加しました。そんな中フィリピンのハンセン病隔離島と言われるクリオン島を知りました。クリオン島は90年代、ハンセン病患者の隔離島として知られ、世界最大規模の療養所となりました。今も元患者さんが暮らしているということを知り、クリオン島に行くことを決めました。
クリオン島に行くにはコロン島ブスアンガ空港からトライシクルに乗ってコロンポートに行き、そこからフェリーに乗り約1時間30分ほどでクリオン島につきます。私は安さにつられてマニラからプエルトプリンセサ空港行きのチケットを取りましたが、そこからコロン島に行くにはバンで8時間かけてエルニドへ行き、そこからさらにフェリーに乗り、10時間ノンストップでコロン島を目指します。その日は台風が近付いていたので、波が激しく、私を含むほとんどの乗客が体調を崩し、サービスのお昼ご飯も全く食べられませんでした。プエルトプリンセサ経由はフェリーやホテル代などを含めると、ブスアンガ行きの航空券の値段とさほど変わらないので、ブスアンガ経由で行くことを強くお勧めします。
来る前に見たクリオン島について書かれたブログにて、ガイドと見て回ることをお勧めすると書かれていたので、ガイドさんを紹介してもらいました。彼はみんなにパストウと呼ばれ、クリオン島唯一の公認ガイドとして働いるそうです。ほとんどボランティア活動に近く、モーターバイクに乗せてくれてクリオン島を一周したり、丁寧に建造物の案内をしてくれます。彼はハンセン病にかかったおばあさんを持ち、歴史を後世に伝える責任があると感じているそうです。街のいたるところには、ハンセン病にまつわる説明が書かれたボードが立っており、島全体が博物館のようでした。パストウさんに頼み、元患者さんを紹介してもらいロイダさんという女性の方にお会いしました。
英語も堪能な元患者のロイダさんは、私の訪問を歓迎してくれ、タガログ語が話せない私のために、通訳をしてくれたり、質問に丁寧に答えてくれました。彼女は19才の時に友人に誘われ、親元を離れこの島に来たといいます。現在は娘さんと孫と一緒に暮らしながら患者さんのヘルパーとして病院で働いているそうです。彼女はクリオン島で生活することは、治療にはいいと思って、自分の意思でここに来たと言います。家族と離れる時はどんな気持ちでしたかという質問に対して、「病気が治らない方が辛いし、年齢的にも自立する時期だったから、寂しいとかそんな気持ちはなかった。クリオン島は美しいし、静かで素敵でしょ」と答えてくれました。日本での元患者さんからは、非人道的な扱いや辛い話を聞いていたので、彼女の返答に少し拍子抜けしてしまいました。
2日間の滞在を経て、帰りのフェリーを待っているとき、パストウさんにこんな話をされました。
「もしクリオン島についてブログや記事を書くことがあったら、ハンセン病という言葉は使わないでほしい。クリオン島の歴史は認めているし、これからも正しい事実を伝えつづけるけど、今後島のためにもごく普通の観光地として美しい島クリオン島をアピールしたいんだ…」。
私はこの言葉にまたしても驚かされました。日本での収容所をいくつか訪れましたが、そういったことを言われたのは初めてでした。島に残るハンセン病がどれだけ島全体に影響しているのか、ということを彼の言葉で考えさせられました。またそれはこの島で生まれ育って生活をしている人にしかわからない気持ちなのかもしれません。
クリオン島はロイダさんが言っていた通り美しく静かで、ビーチはないけれど、海は透き通っていて少しボートをこげばダイビングもできるし、本当に素敵なごく普通の島で、コロン島より好きだなあと思いました。もうすぐ帰国が迫っているけど、時間をなんとか作ってまた訪れたいと思います。

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クリオン島のガイドさんと一緒に

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元患者のロイダさんからお話を聞く

クリオン島のハンセン病療養所
20世紀初頭、アメリカ植民政府はパラワン島の北方50キロにあるクリオン島をハンセン病患者の隔離地と定めた。レオナ—ド・ウッド第9代フィリピン総督は総督を辞めるとき私財を投じてこの島にハンセン病研究所を建てた。
1906年、蒸気船でセブから365名のハンセン病患者が送り込まれたのが始まりで、1930年には収容患者は8500名に増加し、ハンセン病の強制隔離島として世界的に有名になった。現在のクリオン島の人口は約2万人でそのほとんどがハンセン病患者の子孫だ。島には手付かずの自然が残り、ダイバーに人気の観光地になっている。
1930年に造られた瀬戸内海のハンセン病患者隔離施設「長島愛生園」は、このクリオン島がモデルになった。

◎ Navi Manila Vol.31 より