日本人移民が裸一貫で原野を開拓して建設した街、ダバオ

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__おかっぱのかわいい女の子とぼうず頭の男の子が分かれてびっしりと座り、教壇のほうを見ている。まるで今のフィリピンの公立小学校のように、教室の活気とざわめきが伝わってきそうだ。写真は戦前の日本人小学校の授業風景。説明には「ダバオ日本人小学校」とある。後ろには保護者と思われる人たちがいるので授業参観日であろうか。右後方には開閉式の窓があり、いかにも南国らしい教室の作りだ。
__ドゥテルテ大統領の出身地ダバオには戦前、麻栽培に従事する1万8000人の日本人移民が暮らし、小学校だけでも13校を数えた。貧しかった戦前の日本人移民はバゴボなど先住民の住む土地に入植し、ラワンの大木を切り倒して野焼きをしながら、麻畑を広げていった。現在のダバオの街の基礎は日本人移民が切り開いたとも言える。写真の児童らはその移民の子どもたちで、教育を受けていない1世は子どもになんとかして日本人としての教育を受けさせようと、本国から教員を呼び寄せて次々と日本人学校を建設していった。
__先月、安倍首相と昭恵さんがダバオを訪問、昭恵さんはダバオ市の北にあるミンタル地区の旧日本人墓地を訪れて献花した。ミンタルこそは日本人がいちばん多かった地区でフィリピン人から「リトル・トーキョー」と呼ばれ、移民らは人々が居着くようにとの願いを込めて「民多留」いう字をあてた。
__左下の写真の立派な木造2階建ては1924年に開校したミンタル小学校で生徒数は25人、日本人会が直轄し3年後には在外指定学校の認可を受けている。校庭があった場所には現在も「ダバオ開拓の父」と呼ばれた太田恭三郎氏の記念碑が残り、旧日本人墓地はその碑の近くにある。墓地の敷地内にはドゥテルテ大統領がダバオ市長時代の2013年に私費で寄贈した「無憂の碑」がひときわ目を引いている。ドゥテルテ氏の先祖はビサヤ移民だったため、日本人移民への共感と同情があってか、市長時代から同氏は親日家として知られていた。

「ダバオ開拓の父」太田恭三郎氏(娘たちといっしょに)

「ダバオ開拓の父」太田恭三郎氏(娘たちといっしょに)


 

ダバオ日本人小学校の校舎の前で記念撮影


ミンタル日本人小学校