空爆の記録映像で知る大戦
2021年12月にNHK BS-1スペシャルで放映された『空の証言者~ガンカメラが見た太平洋戦争の真実~』のバギオ市とその周辺での調査と、撮影のコーディネートを担当した。このドキュメンタリーは、アメリカで見つかった第2次世界大戦中に米軍の戦闘機に設置されたガンカメラの映像から、米軍がアジア各地で行った空襲について検証するという内容だった。米軍の空襲と聞くと日本各地での本土爆撃を思い起こすが、当時日本統治下にあったアジア各地で容赦ない米軍による空爆が行われたのだ。
番組では、1944年からの米軍の出撃記録を分析し、わかりやすく地図に反映していた。日本占領下のフィリピンでは1944年後半からほぼ毎日空爆が行われた。そして1945年1月にルソン島に米軍が上陸し、3月にマニラが陥落した後も、各地に散らばった日本軍兵士を標的とした空爆が続いたという。特にバギオは、フィリピン戦を指揮していた山下奉文司令官が司令部を置いていたこともあり、執拗に空爆が繰り返された。
私のもとへ資料として送られてきた米軍の記録からバギオでの空爆について調べてみたら、1945年1月から3月までの間に25回もあった。バギオ市長だったE.J. ハルセマの生涯を息子が記した書籍『E.J. Halsema, Colonial Engineer』によると、3月4日から10日にかけて933トンの爆弾と1,185ガロンのナパーム弾が投下されたというからすさまじい。バギオで「カーペット(絨毯)爆撃」として語り継がれているのが、3月15日の空爆だ。たった1日で170機の爆撃機によってバギオの街は焼き尽くされた。
戦争の語り手を探して
これらの米軍による空爆のことを覚えている人を取材したいというのが、番組のディレクターからの要望だった。2022年は終戦から77年目。大戦のことを語れる人は、年々減り続けている。フィリピンでは90歳以上のお年寄りは少ない。子どもの頃の記憶があいまいだったり、あとから本などで読んだ話が混ざったりしていて、いつも取材対象の選定には苦労する。しかもコロナ禍で、多くのお年寄りはこの2年間、ほぼ家に閉じこもったままだ。同居の家族たちは、お年寄りと家族以外の見知らぬ人との接触を極端に嫌う。結局、90歳代の証言者は見つからず、80歳代の3人に話を聞くことができた。記憶の時間軸にはあいまいなところがあったが、インタビューに答えているうちに米軍の空爆を見た時の断片的なショッキングな映像が脳裏によみがえってきているようだった。
番組ではそのうちの一人、オーランド・デ・ラ・クエスタさんの空襲と戦後の記憶についてのインタビューが放送された。放送されなかったが、オーランドさんの話は実に多岐に渡っていた。父親が町の中心にクリニックを構える医師で、母親が看護師だったというオーランドさんが戦前から戦後に見聞きした話は、バギオの一般市民の歴史そのものだった。
日本兵の写真
商魂たくましかった母親は、子育てを祖母に任せ、戦時中も山岳地方で採掘された金や医療用のアヘンを隠し持って、日本兵の目をごまかしてマニラの中国人に売っていた。オーランドさん自身も空爆を生き抜き、廃墟となった建物跡から鉄の棒を拾い集めて市場の中国人に売っていたところ、9歳で警察に逮捕された。抗日ゲリラと思われる人たちが日本軍に斬首されるのを目にしたこともある。
そんなオーランドさんは、私が日本人だと知って、1枚の写真を見せてくれた。タミさんという日本人の若い兵士のものだった。日本軍がバギオを占領した時にクリニックだった彼らの家は日本軍の病院となり、家族は追い出され、近郊の小さな洞窟に一家5人で暮らしていた。しかし、家の裏手にあった畑で野菜栽培をすることは許され、家族はたびたび畑を訪ねることができたという。タミさんはそこでまだ幼かったオーランドさんにクッキーをくれたり、馬に乗せてくれたりしてよく遊んでくれたそうだ。オーランドさんは「自分の人生で初めての友達がタミさんだった」と言い、タミさんやその家族に再会したいと話してくれた。
今も語り継いでいかねばならない物語は、たくさんある。
反町 眞理子
環境 NGOコーディリエラ・グリーン・ネットワーク(Cordillera Green Network / CGN)代表。Kapi Tako Social Enterprise CEO。山岳地方の先住民が育てた森林農法によるコーヒーのフェアトレードを行う社会的企業を運営。
Yagam Coffee オンラインショップ https://www.yagamcoffeeshop.com/
コーディリエラ・グリーン・ネットワーク https://cordigreen.jimdofree.com/