その生涯は絵とともに

 

 その通りの名前の由来にもなっているフェルナンド・アモルソロの像が、首都圏マカティ市アモルソロ通りとV・A・ルフィノ通りが交差する地点にひっそりと佇んでいる。国を代表する画家であり、フィリピンで最初に「ナショナル・アーティスト」に認定され、「フィリピン芸術の大御所」として知られるアモルソロは、その像も絵画用のパレットを片手に、まるで「何を描こうかな」と、心を弾ませているかのように微笑む。

 

アモルソロ通りに建つフェルナンド・アモルソロ像(Fernando Amorsolo 1892~1972)

 

 

 アモルソロは、同じく画家であった叔父の影響により、少年時代から絵を描き始めた。フィリピン大学芸術学部を卒業後、公共事業局の製図係、フィリピン大学教員など、数々の仕事を経てスペイン・マドリードのサン・フェルナンド王立学院に留学。その後マニラに戻ってきてから本格的に画家としてのキャリアを積み始める。1922年に戦前の独立準備政府(フィリピン・コモンウェルス)のポスターに描かれた「田植え(Rice Planting)」は、代表的な作品の1つである。

 

 

作品に母国愛を投影

 

 

 1930年代初頭には、アモルソロの作品がフィリピン各地で展示されるようになった。著名人の愛好家も現れ、作品の人気は高まったが、アモルソロは自身の元の作品と全く同じ複製はつくらず、それぞれの作品で少しずつ要素を変えて描いていたことでも知られている。
 特にフィリピンの田舎町の風景画が有名なアモルソロは、伝統的なフィリピン文化や習慣、祭典などにこだわりを持っていた。また女性像も、西洋の理想を否定し、フィリピン人女性の美しさを投影した。ちなみに、アモルソロは4人の女性との間に20人の子を授かっている。彼がいかにフィリピン人女性を愛していたかがわかる気がする。

 

 第2次世界大戦中の作品では、自宅の窓から見た破壊された建物や死体など、日本の占領下における争いの痛々しさや残酷さを描いた。中でも女性をモデルにしたものが多く、戦争によって嘆き苦しむ女性たちの絵が多く描かれている。

 

 

(初出まにら新聞2023年11月9日号)