マニラ市エルミタのマニラ市庁舎そばのボニファシオ・シュラインにあるエミリオ・ハシント像(Emilio Jacinto, 1875~1899)。

 

 

自身の学歴を投げ出し
国家独立を求めた青年

 

 「肌の色が黒かろうが白かろうが、人間はみな平等だ; 知識において、富において、美において優れていても、人間として優れているわけではない(Maitim man at maputi ang kulay ng balat, lahat ng tao’y magkakapantay: mangyayaring ang isa’y higtan sa dunong, sa yaman, sa ganda, ngunit di mahihigtan sa pagkatao.)」

 


 スペインからの独立を目指した秘密結社「カティプナン」の14のルールの1つである上記の1文は、カティプナンの中心的人物の1人だったエミリオ・ハシント将軍の名言として知られている。

 


 ハシントはマニラ市トンド出身で、同胞アンドレス・ボニファシオと同様に貧困層の家庭で生まれ育った。貧しいながらも大学で学ぶ機会を得て、サンフアン・デ・レトラン大学に入学。そして法律を学ぶためサントトマス大学に編入した。同級生には後に大統領となるマニュエル・ケソンやセルヒオ・オスメニャ、フアン・スムロンらがいた。

 


 19歳のころ、社会的改革を目指す同盟「ラ・リガ・フィリピナ」に参加するが、指導者であったホセ・リサール逮捕をきっかけに解散。その後大学を中退して、ボニファシオ率いるカティプナンの主要メンバーとなった。

 

 

カティプナンの頭脳派将軍
スペインと戦い続けた人生

 

 カティプナンでのハシントは報道官および財務を担当し、教育を受けることができなかったボニファシオをサポートした。カティプナン公式新聞『ザ・カラヤアン(the Kalayaan)』に執筆し、規則や原則を記したカティプナンの活動ハンドブック『カルティリャ・ナン・カティプナン(Kartilya ng Katipunan)』を書いたのもハシントだった。21歳の若さでカティプナンが統率するゲリラ軍の将軍になり、マニラ周辺のスペイン勢力に対して果敢に攻撃を行った。

 

 

 親友であり、互いに支え合ったボニファシオがエミリオ・アギナルドによって逮捕、処刑され、ハシントはアギナルドから彼の派閥に勧誘される。だが、ハシントはこれを断った。その後、ラグナ州マグダレナ町に移り住み、なおもスペインとの戦いを続けた彼は、1898年に戦いによる重傷を負う。このときは生き延びたものの、1899年にマラリアに感染し、23歳の若さで亡くなった。

 

 

 

(初出まにら新聞2024年4月9日号)