首都圏マニラ市のフィリピン国立図書館の前にあるテオドロ・M・カロ―像(Teodoro M. Kalaw, 1884~1940)

 

 

 

文献の収集家から
国家主義のジャーナリストへ

 

 

 バタンガス州リパ市に生まれたテオドロ・カローは、3カ国語を操り、政治家であり歴史学者として貴重な文献のコレクションを持っていたことでも知られる。青年時代から革命関連のフライヤーや新聞などを集めており、フィリピン共和国憲法の構成に携わったアポリナリオ・マビニによって書かれたものやアンドレス・ボニファシオの裁判についての記録なども含まれていた。自身で書くことを始めたのも学生のころで、学生新聞にポエムやエッセイ、短編小説などを寄稿した。エスクエラ・デ・デレチョ(マニラ法律大学)で法学を専攻したのち、司法試験に首席で合格。民法を含む4教科で100点満点を獲得したという。

 

 エスクエラ在学中から、米国からの独立を目指す国家主義を掲げるスペイン語とタガログ語のバイリンガル新聞のエル・レナシミエント(タガログ語名:ムリン・パグシラン)のスタッフメンバーとして働き始めた。やがて当時の編集長が下院議員となったことから、次期編集長に就任したカローは、国家主義の伝統を引き継ぎ、フィリピン人の権利を擁護し、米国の帝国主義支配とそれにあやかる上官たちを痛烈に非難する社説を書いた

 

 

識字率に貢献
フィリピン図書館の父

 

 

 1908年にはマニュエル・ケソン元大統領の秘書となり、同年若干25歳にしてフィリピン下院議員に最年少で選出された。ケソン元大統領の外遊に同行し、国内移住や農業開発を支援する法案を提出、市民税による公立学校の維持を提案などさまざまな活動を行った。   

 

 

  
 またカローは教育者としての一面も持ち合わせ、母校であるエスクエラで法律を教えるとともに、高潔で愛国心のある若者を育てることに力を注いだ。さらにフィリピン国立図書館の理事に1916~1917年と1929~1931年の2回就任し、「フィリピン図書館の父」と呼ばれる。フィリピン人に学習意欲を起こさせ、識字率の向上に大きな貢献を果たした。

 

 

(初出まにら新聞2024年4月23日号)