農民から軍人、将軍となり
祖国の独立に捧げた生涯
剣を持ち、目を見開き、後方の自軍を大声で鼓舞するような姿の像は、フィリピン革命の先導者の1人、ピオ・デル・ピラール。勇猛果敢な闘士として知られるピオ・デル・ピラールは1860年、サンペドロ・マカティのクリクリ(Culi- Culi、現在の首都圏マカティ市バランガイ・ピオ・デル・ピラール)の農家に生まれ、男2人、女5人の7人きょうだいの中で育った。
家の農場で働くために学業を止め、17歳で幼なじみの女性と結婚。だが、その年にスペインの軍隊に徴兵されて、ミンダナオ地方へモロ(イスラム教徒)の反乱軍との戦争に赴くことになる。この頃、スペイン人の迫害から家族を守るために、本名のピオ・イシドロ・Y・カスタニェーダ(Pío Isidro y Castañeda)の名字を変えて、ピオ・デル・ピラールを名乗った。
20代でホセ・リサールに出会って感銘を受け、当時禁書とされていたリサールの著書『Noli Me Tángere (我に触れるな)』を流通させた。1896年5月、スペインからの独立をめざす秘密結社カティプナンに参加。カティプナンの構成員として疑いをかけられて逮捕され、拷問を受けたが、一切自白しなかった。
カティプナンではマグタグンパイ(Magtagumpay、勝利の意味)という部隊を組織し、 パン・ウナ(Pang-una、リーダーの意味)というニックネームで呼ばれた。その後将軍となり、ビナカヤンの戦い(Battle of Binakayan)では自軍を勝利に導き、後年、比米戦争でもマカティを奪還する功績を残した。だが、最後の戦争となったリサール州モロンでの戦いで敗れ、米国に捕らえられてアポリナリオ・マビニらとともにグアムへ流刑となる。そこでも米国への忠誠を誓うことは拒否し、フィリピンにいる同志を励まし続けた。1902年、恩赦が認められてフィリピンに帰国した後も、米国からの独立と主権確立のために戦った。
1931年6月21日、71歳を目前に病死。マニラ・グランド・オペラハウスで盛大な追悼集会が行われ、マニラ北部墓地に埋葬された。
1962年、ピオ・デル・ピラール生誕の地クリクリは、地名をピオ・デル・ピラールに変更した。現在、マカティ市バランガイ・ピオ・デル・ピラールのバランガイ事務所前にもピオ・デル・ピラールの像が立っている。
(初出まにら新聞2024年5月14日号)