みなさんこんにちは! Kumusta kayo? 2021年は、スペインの船団が初めてフィリピンに到来した1521年から、ちょうど500年にあたります。当時のフィリピンは、バランガイと呼ばれる集落からなり、まだ1つの国ではありませんでした。バランガイとはマレー系の人たちがフィリピン諸島へ乗ってきたとされる船のことですが、人々が定住するうちに、だんだんと大きな集落になり、それらをdatu(ダトゥ)と呼ばれる族長が治めていたのです。
族長の呼び方も「ダトゥ」が一般的ですが、マレーシアやインドネシアとの貿易を行う地域ではRaja(ラハ)、ムスリムの居住地域ではSultan(スルタン)、タガログ人の地域ではlakan(ラカン)と呼ばれるなど、多岐にわたっています。フィリピン大統領府はMalacañang Palace「マラカニアン宮殿」に置かれていますが、「マラカニアン」は “May lakan dyan”「そこにラカンがいる」に由来していると言われます。
支配層、平民、成金、奴隷
ダトゥは当時の社会階級の最上層とされるMaginoo(マギノオ)の出身と決まっていました。ビサヤ地方ではTumao(トゥマオ)がこれに相当します。マギノオもトゥマオも両親ともその階級の出身でなければならず、片方の親が他の階級の出身の場合は、子供はこの下のTimawa(ティマワ)という平民階級とされました。
奴隷階級alipin(アリピン)またはビサヤ地方の uripon(ウリポン)が借金を返済し、自由の身になった場合もティマワ階級になりました。ティマワであっても、富の力や政略結婚などでマギノオやトゥマオになった人はMaygintao(マイギンタオ)、つまり “may ginto”(金がある)ので マギノオ/トゥマオになった「成金」と呼ばれたそうです。
16世紀の平民階級のビサヤ人夫婦(A Visayan Freemen couple, 1595/Boxer Codex)
アリピンは「奴隷」と訳されますが、主に借金が返せなくなった人が労働によって支払うためにアリピンとなったそうで、昔の日本で言えば奉公に近いものだったようです。アリピンには2種類あり、aliping namamahay (アリピン・ナママハイ)は直訳すれば「自宅に住む奴隷」、つまり自分の家から職場に通い、独身者は自由に結婚相手を選ぶことができました。一方、aliping sagigilid (アリピン・サギギリッド)は地位が低く、「家の一角に住む奴隷」つまり住み込みで働いていました。結婚するには勤め先の許可が必要で、結婚すると自分の家から通うアリピン・ナママハイになりましたが、女性が結婚を許可されることはあまりなかったようです。
国名変更!?
ラグナを中心とする一部の地域では、マギノオとティマワの間に「マハルリカ(Maharlika)」という階級がありました。これは戦士の階級で、自分の仕えるダトゥを自分の意思で選ぶことができました。マハルリカの語源はサンスクリットのmaharddhika (マハルディカ)で、「富と知識と能力のある人」という意味です。マルコス元大統領はこの言葉を「高貴な人(=上流階級)」という意味だと誤解し、この語を「新社会」政策の中で多用しました。イロコスからサンボアンガまでを貫くフィリピン縦貫国道が「マハルリカ・ハイウェイ」と名付けられているのもその一つです。
またマルコス大統領は「フィリピン」という名はスペインにより名付けられた植民地の名称だとして、国名を「マハルリカ」に変更すべきだという案に賛同していました。実は2019年には、ドゥテルテ大統領も国名を変更すべきだとの意見を示し、「(マハルリカは)平安と平和を表す言葉で適切だ」と述べていますが、先に述べたように、ごく一部の地域で「戦士階級」を指した言葉であって「平安と平和」という意味も「高貴な人」という意味もありません。
パンデミックの影響もあり、この案は立ち消えとなっているようですが、勘違いに根ざした国名変更では後々までお笑い種となりそうです。たとえ変えることになっても、別の名にした方が良さそうな気がします。
文:デセンブラーナ悦子
日英・タガログ語通訳。大阪外大フィリピン語学科卒。在学中にフィリピン大学に交換留学。フィリピン人の夫と1992年に結婚、以後マニラに暮らす。趣味はダンスだが、最近は時間が取れないのが悩み。