ラジャ・スレイマン(Rajah Sulayman)の像は、1976年にエドゥアルド・カスティリョによって製作され、彼にちなんで名付けられたプラザ・ラジャ・スレイマン(マニラ市マラテのロハス大通り)にある。

 

 

血気盛んな王子

 

 1570年のマニラの戦いで、スペイン勢力にフィリピン側のリーダーの1人として立ち向かった戦士が、ラジャ・スレイマンである。スレイマン3世とも呼ばれる彼はルソン王国の王子であり、アキ王の甥だった。マニラの戦いの際、当時指揮を執っていたアキ王とトンド王国を治めていたラカンドゥラとともにフィリピン勢力を率いたが、スペイン側の記録でスレイマンは「最も攻撃的だった」と記されている。

 

 

友好条約一転、宣戦布告

 

 スペイン人のミゲル・ロペス・デ・レガスピは、ポルトガル海賊の影響によりセブ島からパナイ島へ逃れ、新しい拠点を探していた。そこで見つけたのがルソン王国であった。レガスピはマーティン・デ・ゴイティとフアン・デ・サルセドを使者として送り、友好条約の締結を目指した。当時すでに年老いていたアキ王に代わって権限を与えられていたスレイマンは、始め「友好」の言葉を信じ条約を受け入れたが、その後主権を譲ることを拒否して宣戦布告。戦いの末、ゴイティの軍に街を略奪、焼き払われる結果となった。

 

 

スレイマンの反乱とその後

 

 レガスピの死後、後を継いだグイド・デ・ラベサリスは、スレイマンたちが所有する財産の強奪を容認した。これにより起こったのが「スレイマンの反乱」である。スレイマンらは、現在の首都圏ナボタス市で起こっていた中国海賊の攻撃による混乱を利用して応戦。最終的には、サルセドなどの仲介により、ラベサリスとの間に和平条約が結ばれた。

 

 スレイマンのその後については諸説ある。反乱によって亡くなったとの説もあれば、それは別の人物と勘違いしているだけであって、その後も長生きしたとの説もある。子孫や親戚筋の名前は文献に出てくるが、スレイマン本人の名前はない。ちょっとミステリアスな英雄といえるかもしれない。