在住邦人の中に、何十年にも渡ってフィリピンに暮らしている方々がいます。この国の歴史に立ち会い、今とは全く違うであろう環境の中でどのような経験をされてきたのでしょうか。フィリピン在住邦人の先達であるフィリピン退職者庁(PRA)日本人倶楽部の家田昌彦さん、加村清治さんにフィリピンに来たきっかけから今に至る体験を聞きました。(ナビマニラ編集部)
60年前、マニラに来て移住を決心、
フィリピンの人々とともに生きる覚悟。
キャデラック送迎付き留学生活
複雑な対日感情の中での体験
1961年6月、私にとって初めて訪れた海外がフィリピンでした。当時、岐阜県で製紙会社を経営していた父がフィリピン公共事業庁長官だったソテロ・バルヨット氏とダバオでラワンの廃材利用してパルプの生産を計画していました。マニラに来たのは、そのバルヨット氏から大学卒業後に一度マニラに来るよう誘われていたこと、そして家業のフィリピン事業の投資前調査が目的でした。マニラに来る前に数カ月にわたり、海外在住経験がある人に英語を習って準備をしました。
当時フィリピン行きの日本の航空会社はなく、KLMオランダ航空のプロペラ機で沖縄を経由して8時間。到着したマニラ空港には小屋がぽつんとあるだけ。よく晴れた日で「暑い国に来たんだな」、そして「あっという間に異国へ来てしまった」というのが、最初の感想でした。
ケソン市のバルヨット氏宅でホームステイをしながら、事業調査を行うと同時にファーイースタン大学の聴講生となりました。フィリピンの日本人留学生は私が戦後初だったようです。20歳前のフィリピン人学生たちの中に日本で大学を終えた年齢の自分がいるのは居心地が悪く、翌年サンベダ大学に移りました。バルヨット家にお世話になっていることで治安の不安もなく、上流階級の生活を楽しみ、通学には米国製高級車キャデラックで送迎というまるで要人のような扱いを受けていました。
マニラに来た翌年(62年)には、当時の皇太子ご夫妻(現上皇上皇后両陛下)が昭和天皇のご名代としてマニラを訪問され、ケソン市の日本大使公邸で学習院大学の後輩として両陛下に謁見(えっけん)する機会もありました。
当時は戦争が終わって、約15年経った頃。マニラ湾に潜水艦の残骸らしいものが残っていたり、日本兵の恐ろしさを描く映画が上映されたりしていましたが、私の周りに反日感情を表す人はいませんでした。そんな中で、サンベダ大学の友人とある女性の家を訪ねた時、私が日本人だと知るや、彼女の父親から「出ていけ、二度と来るな」と追い返されたことがあります。今も忘れることができない体験でした。
新事業「アバカパルプ」開発
絶望と希望、日比関係の転換
ラワンの廃材からパルプを生産するという事業の計画は、残念ながら採算が取れず断念せざるを得ませんでした。そして、ラワンの代わりにマニラ麻(アバカ)でのパルプ生産を思い立ちました。日本の紙幣の原紙に強度を出すため、フィリピンの麻の古ロープが使われていると聞いたことがあったのです。65年にビコール地方アルバイ州タバコ町にアバカパルプの試験所を開設しました。その後まもなくバルヨット夫妻を仲人に日本で挙式し、バルヨット氏宅を出て、マカティ市に居を構えました。
しかし、試作パルプの量産化を目前にした67年、大型台風で試験所が吹き飛ばされ、略奪にも遭ってドアのノブまで盗られてしまいました。あまりの惨状に帰国することも考えましたが、新事業への思いを断ち切ることはできませんでした。そんな時、ラグナ州でサトウキビのしぼりかす(バガス)を使ったパルプ工場が操業停止中と聞き、その会社のホセ・ユーロー社長に「アバカパルプの試作に使わせてほしい」と直談判しました。何度もの交渉の末、工場の使用許可を得てからはアバカパルプの事業化が一気に進み、69年には量産化に成功、73年に日本の造幣局へ納入が決まったのです。
60年代、フィリピンを訪れる日本人は政府関係者や戦後賠償案件に関わる商社の駐在員がほとんどで、在留邦人は250人ほど。70年代に入ると日比通商航海条約が締結され、ビザ発給数の緩和により日系企業の進出が急増しました。雇用創出に期待が高まることでフィリピン人の対日感情にも良い効果をもたらしました。一方で、70年~80年代には日本人が巻き込まれた殺人事件、誘拐事件、マルコス大統領による戒厳令、ベニグノ・アキノ元上院議員暗殺事件が起き、「フィリピンは危ない」というイメージを日本人に植え付けてしまったと思います。
フィリピンの歴代政権を近くで見てきましたが、戒厳令前のマルコス大統領を超える優秀な大統領はまだいないと思っています。演説がうまくカリスマ性があり、本当に人気がありました。
この国でフィリピン人とともに
生きていくための「3箇条」
マニラに長年暮らすうちに、日本人からビザや生活について相談されることが増えてきました。そこで日本人同志助け合うことを目的に84年に結成したのが「マニラ会」でした。初代会長の大沢清氏、神父の西本至氏、旅行会社経営の島田栄氏ら約30人で発足しました。さらに、2001年11月にはフィリピン退職者庁(PRA)日本人倶楽部の旗揚げに参加。退職して所属会社を離れた者同志の情報交換の場が必要だと感じたのが、創設の理由です。異国で日本人が安全かつ安心して暮らすには、やはり在留邦人同志のつながりが不可欠と実感したからです。2006年に同会の2代目会長に就任しました。
私はマニラに来た時から、日本へ戻る気はありませんでした。4人兄弟で兄と2人の弟がいたので、実家に戻ることも難しかった。フィリピンでアバカパルプの開発に取り組み、フィリピン人の心情に惹(ひ)かれた、住みやすかった、理由はいろいろありますが、暮らすうちに、フィリピンのために、フィリピンの人々とフィリピンで生きていこうと思うようになったのです。常に自分に言い聞かせてきたのは、「フィリピン人社会に溶け込む」「フィリピン人の悪口を言わない」「フィリピン人と金の貸し借りはしない」という3箇条です。家に空き巣に入られたことも何度かあります。しかし、この国にお世話になっているのだから、多少持って行かれても「納税のうち」という気持ちでした。
今はコロナ禍で旅行は難しいですが、在留邦人の皆さんには機会をつくってフィリピンのいろいろなところへ出かけてほしいです。私自身、昔は麻の栽培の視察を兼ねて、ビサヤ、ミンダナオ地方の主要な島へはほとんど行きました。ボホール、バナウエ、ビガンなどの有名な観光地、世界遺産へは、ぜひ訪れることをすすめます。この国をよりよく理解するのに役立ちます。
フィリピン人といい関係を築けば、
フィリピンでの可能性が広がる。
マニラへ派遣され、1人に。
飲食店創業・経営40年
最初にフィリピンに来たのは1976年、当時勤めていた「ローストビーフの店 鎌倉山」のマニラ店オープンのためでした。私にとって初めての長期海外滞在でした。店はケソン市の大邸宅跡地に開店したのですが、停電が頻繁に起きたことや、マカティからの来店には不便だったこともあって2年ほどで閉店。一緒に赴任したマネジャーは頻発するトラブルに参って途中で帰国し、私一人となりました。神経質な人にはフィリピンに向いていないかもしれません。
その後、私はマカティのパサイ通り(現アーナイズ通り)に洋食店「ドンファン」を開くことになりました。それまでのマニラ滞在中に多くの人に知り合ったことが、フィリピンに残ることにした理由です。その頃パサイ通りにあった日本料理店は私の店のほかに「おおとり」、「ラーメン亭」だけだったと思います。私の店では日本のハンバーグ、オムライス、ハヤシライスなどの洋食や1,000ペソのおまかせコース料理を提供していました。当時1米ドル7ぺソ、1万円を両替すると400~500ペソの時代です。日本人の駐在員に連れられてくるフィリピン人にはステーキやハンバーグが人気でした。今と違い日本の食材がないのには困りました。米はカリフォルニア米で、醤油も入手が困難でしたから。一方、米国産アンガスビーフや地元産のいい鮮魚が使えました。
マニラに40年以上在住する中で、「ドンファン」、「花清」「ファン・ミロ」「創作」「Seiji」などの店を経営する一方、コンサルタントとして「TOKYO-TOKYO」「TERIYAKI BOY」などの地元フランチャイズの設立に関わり、客船の調理師の指導もしました。店でフィリピン人調理師を採用する時には、一から基本を教えるので、経歴よりも人柄を重視します。仕事で使うのはタガログ語。マニラに来た時から英語が通じない職場だったので、習得しました。タガログ語ができると法外な値段をふっかけられることもなく、市場に行くのが楽しくなりましたね。
フィリピン人を叱ると
調理場で包丁を突き付けられた
日本料理がフィリピン人の間に浸透してきたのはこの10年ほどでしょうか。油をあまり使わない健康食であることや、日本に行くフィリピン人が増えたことが和食ブームをけん引していると思います。マニラの日本料理店ではエビの天ぷら、チキン照り焼き、カリフォルニア巻(アボガドではなくマンゴーを使うフィリピン流)がフィリピン人に人気の3大メニューでしょう。
仕事場でのフィリピン人との関係はいつも良好だったわけではありません。調理場で従業員に包丁を突きつけられたことがあります。その時は別のフィリピン人が止めてくれました。フィリピン人を叱る時は、決して大勢の前で叱ってはいけない。ひとりを呼んで言い聞かせればわかってくれることを学びました。
フィリピンには四季がないといわれますよね? シェフをしていると、フィリピンの果物や魚にもちゃんと季節感、旬があって四季を感じることができるのです。日本にはない食材を使った料理を考えて、お客様に楽しんでもらうのが喜びです。日本で店を持つと金銭面で大きな負担があります。フィリピンにいたからこそ今の自分があると思っています。朝6時から10時頃までゴルフをしてから仕事へ行けるのも、フィリピンにいてよかったと思えることですね。
フィリピン人の友人を持ち、
良好な関係を築く
マニラでは歴史的な事件にも遭遇しました。1986年のエドサ革命の時はアラバンに住んでいて、駐在員の家族がわが家に避難してきました。1997年の通貨危機の時は、預金をしていた地場銀行が破綻する寸前、難を逃れました。現在のコロナ禍によるは、いつ収束するか見通せず大変です。防疫が始まってからも私はBGCで経営する店「モグ」に毎日出勤し、従業員を通常の12人から3人に減らして営業しています。
フィリピンに住み続けようと思っている日本人には、フィリピン人の友人を持ってほしいと思います。フィリピン人にはホスピタリティーがあります。どんなに貧しくても「Kain Tayo(いっしょに食べましょう)」と誘ってくれる人たちです。日本人コミュニティだけではわからないことも、フィリピン人との関係を通じてわかること、できることがあります。例えば、中華街ビノンドのいい店は地元に精通するフィリピン人でないとわかりません。先日、すっぽん料理店があるか聞いたところ、フィリピン人の友人が教えてくれました。
私の仕事、飲食業は外国人のみでの経営ができないため、フィリピン人の共同経営者が必要です。私の場合、妻が日本人で配偶者を経営者にすることができないので、フィリピン人の共同経営者がいます。1986年から関係が続いていて、今は息子さんが引き継いでくれています。共同経営者とのトラブルの話を聞くこともある中で、私は良好な関係を築いてきたという自負があります。
同じ仲間がいるから心強い、楽しい。
「PRA日本人倶楽部」入会のすすめ
フィリピンで第2の人生を――。そう決心して実際に暮らしてみるものの、やはり習慣の違いなどに戸惑うことがあります。また、思わぬトラブルに見舞われることも決して皆無ではありません。そうした中で、PRA日本人倶楽部は快適な暮らしができるように支援する組織です。問題解決が必要な場合には専門家に依頼し、同じ立場の日本人が団結します。
倶楽部内には緊急連絡網があり、在フィリピン日本大使館によって緊急事態が起きた際の情報連絡先にも指定されています。
講習会、親睦会を開催
日常生活に役立つフィリピン情勢の話題や、日本人会診療所医師による心肺蘇生の講習会、さらに懇親会や新年会、ゴルフ大会などを通じ、会員同士の交流と親睦を図っています。
安心で快適、充実のフィリピン生活に、PRA日本人倶楽部へのご入会をご検討されてはいかがでしょうか。下記広告掲載の事務局へお気軽にご連絡ください。
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