経済的困難乗り越え
法律のエキスパートに
法律家として、エミリオ・アギナルドが率いた革命政府の法律・憲法アドバイザーを務めたのが、フィリピン各地の地名の由来にもなっているアポリナリオ・マビニである。バタンガス州タナウアンの貧しい家庭に生まれたマビニは教育を受けるには厳しい環境にいた。しかし、親の学費の支払い能力に関係なく成績優秀者を優先して学ばせたバレリオ・マラバナン神父の学校に通っていたため、学業を続けることができた。マラバナン神父の学校を卒業した後は、奨学金を得てサン・フアン・デ・レトラン大学に進学した。
マビニの母親は彼に聖職に就いてほしいと望んでいたが、貧困層を守りたいとの思いから法学を専攻。経済的困難により、学業の継続に支障が出ることもあったものの、子どもたちに勉強を教えるアルバイトをしながら生活費を稼いだ。
レトラン大学を最優秀の成績で卒業後、1894年にサントトマス大学に進み、、法学部を卒業。しかし自らの法律事務所は設立せず、公証人として働いた。法律の知識はフィリピン革命や比米戦争の際に大いに活かされることになる。
憲法を執筆、米国に対抗
病魔に苦しんだ英雄
当初はホセ・リサールを筆頭とするラ・リガ・フィリピナの非暴力的な改革を支持していたマビニだが、次第に暴力も辞さない革命に賛同するようになり、1898年にはエミリオ・アギナルドのアドバイザーとしてフィリピン独立を目指す革命に貢献した。1895年に患ったポリオの影響で1年後の1986年には両足の機能を失うまでに悪化するが、そのようなハンディは物ともせず、アギナルドによるフィリピン第一次共和国の憲法を執筆した。
フィリピンの支配がスペインから米国へと移り変わった際、米国当局はスペインよりもマビニを脅威として捉え、健康状態が良くなかったにも関わらず、マビニを捕らえて投獄した。そして米国への忠誠宣言を拒否したため、グアムに追放された。
その後、1903年2月に米国への忠誠宣言を行い、フィリピンへ帰国。忠誠宣言は帰国のための表面的なもので、すぐに革命に向けて再び動き出した。しかし帰国して間もなくコレラに感染し、同年5月に38歳の若さで息を引き取った。葬儀は史上まれに見る盛大な規模でビノンド教会で行われたという。 現在マビニはナショナルヒーローの1人としても知られる。
(初出まにら新聞2024年4月30日号)