名家生まれの人気者
政治家として順調に成長
これまで紹介したフィリピンの歴代大統領よりも、一段と存在感と知名度があるといっても過言ではないのが、ベニグノ・アキノ・ジュニア元上院議員である。愛称が「ニノイ」であったことから、ニノイ・アキノと呼ばれることが多く、マニラ国際空港や国民の休日にもその呼称が使われている。
ルソン地方タルラック州の名家に生まれたニノイ・アキノは、祖父も父も歴代大統領の下で働いた政治家であったことから、自身も同じ道に進む。1954年には、妻コラソンとの結婚式を支援したラモン・マグサイサイ元大統領から、反政府グループ・フクバラハップのリーダー、ルイス・タルクを投降させる任務を受ける。そして、4カ月かけて説得し、タルクは無条件投降した。これをきっかけとし、政治家として順調に道を歩み、人気を獲得。1961年にはタルラック州知事、1966年には自由党の幹事長、そして1967年には史上最年少で上院議員に当選した。
マルコス最大の政敵
投獄中に得た思想と信仰
1972年、フェルディナンド・マルコス・シニア元大統領による戒厳令がフィリピン全土に敷かれたとき、アキノはその影響力からマルコスに敵対する危険人物とみなされ、政府転覆の陰謀や武器の不法所持、殺人などの容疑で逮捕・投獄されてしまう。1977年には死刑を宣告されるが、執行されることはなく、マルコスは1980年にニノイ・アキノを米国に追放した。渡航の名目は手術を受けることとされ、マルコスは国民の人気を得ていたアキノの命を奪うことなく、平和的にフィリピンから追い出すことができたといえる。
アキノ自身は当初、マルコス政権を倒すという野心はなかったとされる。しかし、収監中、カトリックの教えやマハトマ・ガンディー、マーティン・ルーサー・キングJr.などから大きな影響を受け、強い信念と思想を持った政治家に生まれ変わった。以降、マルコス政権を強く批判するなど、獄中からも国民に大きな影響を与え続けた。
謎多き最期と
アキノが残した遺産
亡命から3年経った1983年、アキノは逮捕や暗殺などさまざまなリスクを承知の上でフィリピン帰国を決意した。同年8月21日、国軍兵士が厳重に警戒にあたる中、台湾経由でマニラ国際空港に到着したアキノは、機内に乗り込んできた4人の兵士に連れられてタラップを下り始めた10秒後、銃で頭を撃たれて即死した。同行していたカメラマンたちは飛行機内で足止めされていたため暗殺の瞬間は撮影できなかったものの、タラップの下で横たわるアキノの姿ともう1人の男性の姿を捉えた。その後の政府の発表や機内乗客らの目撃証言、事件映像の検証結果などに食い違いがあり、未だに暗殺の真相は明らかではない。
アキノ暗殺事件をきっかけに反マルコス運動はさらに強まり、結果としてアキノの遺志を継ぐかたちとなった妻コラソン・アキノ氏が次期大統領として第11代大統領に選出された。また息子のベニグノ・アキノ3世も第15代大統領となっている。
暗殺から21年経った2004年、グロリア・マカパガル・アロヨ大統領によって8月21日はニノイ・アキノデーとして国民の休日に制定された。
(初出まにら新聞2024年1月16日号)