裕福な華人家庭出身
結婚が大きな転機に
暗殺されたベニグノ・“ニノイ”・アキノ・ジュニアの妻、そしてエドサ革命後に就任した第11代大統領コラソン・アキノ(愛称コリー)。父方、母方ともに政治家一家で、タルラック州の裕福な福建客家系の華人家庭に生まれ育った。米国での高校時代、当時の合衆国大統領選で民主党のハリー・S・トルーマン大統領と争った共和党のトマス・E・デューイ候補を応援するボランティア活動に参加するなど、政治に関心を持っていた。米国での大学の専攻はフランス語と数学であったが、卒業後フィリピンに戻り、法学を専攻する。在学中にベニグノ・“ニノイ”・アキノと出会い結婚した。
結婚後、専業主婦として夫のニノイとの5人の子を育てていた。しかしニノイが政治家として活躍し、当時のフェルディナンド・マルコス大統領の政敵として戒厳令の中、逮捕・投獄される。ニノイは獄中から下院選挙に出馬。当初は反対していたアキノだったが、遊説ができない夫の代わりに各地で演説を行った。これがアキノにとって初めての政治演説となる。
その後、心臓手術を理由にマルコスはアキノ一家を渡米させ、彼らはボストンで過ごす。だが、3年後に夫ニノイが意を決して1人でフィリピンに帰国し、マニラの空港に到着後、暗殺されてしまう。アキノは遠く離れた米国で、未亡人となってしまったのである。
夫の遺志を継ぎ革命
初の女性大統領に
ニノイが暗殺された数日後にフィリピンに帰国したアキノは、その後夫の遺志を継ぐように民主主義を求めて活動する。そして、周囲からの説得もあり、1986年の大統領選への出馬を決意。アキノが対抗馬に名乗り出たことに対し、マルコス大統領は「アキノはただの女性」とコメントを残し、相手にしなかったとされる。
投票終了後、公式に発表された結果はマルコスの勝利だった。しかしマルコス陣営が得票数を不正に操作していたことが判明し、これに反発したアキノ陣営と民衆が猛抗議。また、当時のフアン・ポンセ・エンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀長ら国軍改革派による反政府の動きに対し、100万人もの国民がエドサ通りに集まって彼らを支持した。このエドサ革命(ピープルズ・パワー革命)によって、マルコスは一家でハワイへ亡命。コラソン・アキノがフィリピン初の女性、さらに過去に政治家経験のない大統領として就任した。
(初出まにら新聞2024年1月23日)