フィリピンの歴史に名を遺す
カトリック教会枢機卿
カトリック教会において教皇を補佐する枢機卿(すうききょう)を務めたハイメ・シンは、アクラン州ニューワシントンで華人の家庭に生まれた。そのため氏名は漢字で「辛海梅」または「辛海棉」とも表記される。
親元を離れ神学校で学び、20代でイロイロ市のハロ大司教区の祭司に任命。またカピス教区の教区宣教師に任命されて宣教師となった後、カピス州ロハス市の神学校で初代校長を10年間務めた。そして1967年にはハロで補佐司教になり、1972年3月には協働司教、同年10月に大司教となった。2年後の1974年にはマニラ大司教に任命される。
シンは当初フィリピンカトリック教会のリーダーとしての役割にあまり乗り気ではなかったが、スペインや米国、アイルランドからの大司教が続いていた中で、歴代3人目のフィリピン人大司教としてマニラ大聖堂の大司教に正式に就任した。さらに2年後の1976年、教皇パウロ6世によって、教皇の最高顧問である枢機卿に任命された。
自身の名字がシン(sin、英語で「罪」)であり、「シン枢機卿=罪な枢機卿」のような意味になることから、自虐的なあいさつをして笑いを誘うなど、ユーモアのセンスがあったことでも知られる。
エドサ革命の中心人物
政変における活躍
シンはフィリピンにおけるカトリック教会の中で名を遺しただけでなく、政治に関わる活動でもその影響力を示した。フェルディナンド・マルコス元大統領による戒厳令が敷かれていたころ、シンはマルコスに対し戒厳令を廃止するよう公然と訴えていた。そして次第に大統領選でマルコスの対抗馬であったコラソン・アキノを支援するようになる。
また、マルコスに反旗を翻した当時のフィデル・ラモス国軍参謀次長を守るため、マニラにある警察および国軍本部を取り囲むよう国民に呼び掛けた。これにより集まった100万人以上がロザリオを手に祈り、賛美歌を歌いながらエドサ通りに繰り出し、軍の武力行使から守ることに成功。政府軍からデモ隊側に加わった兵士もいた。枢機卿であるシンの強い影響力がエドサ革命(ピープルズパワー革命)を主導し、マルコス独裁政権崩壊につながったともいえる。
2001年、シンは当時のジョセフ・エストラダ大統領の汚職に反発した民衆のデモ運動を承認。結果としてエストラダは退陣に追い込まれ、当時のグロリア・アロヨ元副大統領が大統領の座に就き、再び政変に貢献した。
(初出まにら新聞2024年1月30日号)