首都圏マニラ市エルミタのマニラ市庁舎そばにあるボニファシオ・シュラインに建てられたカティプナン記念碑。彫刻家エデュアルド・カスティリョによってデザインされ、1998年に公開された。巨大な記念碑に掲げられたKKKの文字が際立つ。

 

 

 

独立目指した秘密結社
母国のために闘争開始

 

 フィリピンがスペインからの独立を目指して戦った歴史に、秘密結社カティプナンの活躍がある。正式名称を「Kataastaasang Kagalanggalangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan (カタアスタアーサン、カガランガランガン、カティプナン・ナン・マガ・アナック・ナン・バーヤン)」といい、「母なる大地の子どもたちによるもっとも尊く愛されるべき会」という意味を持つ。省略してKKKと呼ばれることもあり、米国の白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)と同じ省略名を持つことに驚く人もいるだろう。

 

 


 1892年に国家主義者のデオダト・アレリャノ、テオドロ・プラタ、バレンティン・ディアス、ラディスラオ・ディワ、アンドレス・ボニファシオ、ホセ・ディソンによって結成されたカティプナン。ホセ・リサールが主導したラ・リガ・フィリピナ解散後、そのときの一部メンバーによって改めて発足した秘密結社である。ただ、ラ・リガ・フィリピナはスペイン植民地政府の中で議席を持つことが目標だった一方で、カティプナンは植民地政府からの独立を目指した。カビテ州、バタンガス州、ラグナ州、リサール州、ブラカン州、パンパンガ州、タルラック州、ヌエバエシハ州などまでに活動範囲を広げ、支部を設置。イロコス、パンガシナン、ビコール地方にも影響力を持った。そして1896年、カティプナンによる独立闘争が開始された。

 

 

内部対立から分裂
真の独立かなわず

 

 カティプナンのメンバーになるには勇気、愛国心、忠誠心が試される入団テストに合格しなければならなかった。入団テストでは、具体的にスペイン植民地政府の統治について質問され、望ましい回答ができるかどうかを見極められたという。 度胸試しといえる銃や火を使った試練も課され、最終的にはパクト・デ・サングレ(血の契約)を交わすことで入団が認められた。また、当初メンバーは男性のみだったが、男性メンバーの家族であることを条件に女性メンバーも受け入れはじめ、20~50人の女性がメンバーになったと推定されている。

 


 1897年には独立闘争中でありながら、ボニファシオに近いアンバレス将軍率いるマグディワン派とエミリオ・アギナルドのいとこのバルトロメオ将軍率いるマグダロ派で内部分裂が勃発。分裂を解決する手段として開かれたテヘロス会議で多数派のマグダロ派が主導権を獲得した。同年、マグダロ派のリーダー、アギナルドはスペイン政府と休戦協定を結び、カティプナンメンバーの一部は香港へ渡った。しかし、フィリピンの平穏は長く保たれず、再びスぺインと戦うべく帰国した。

 


 1898年にフィリピンはスペインからの独立を宣言するものの、アギナルドたちの期待とは裏腹に米国の支援は得られないばかりか、スペインから米国へフィリピンが2千万ドルで譲渡されたことを知った。アギナルドたちは今度は米国に対し独立闘争を開始するものの、あっけなくイサベラ州で捕らえられ降伏。カティプナンは解散を余儀なくされた。

 

 

 

(初出まにら新聞2024年4月16日号)