ビノンドに生まれ教会で勤務
濡れ衣で平穏な日々が一転
カトリック教会におけるフィリピン人の聖人であり、フィリピンとフィリピン人にとっての守護聖人とされるロレンソ・ルイスは、1594年、ビノンドで生まれた。
中国人の父親とフィリピン人の母親はカトリック教徒であり、ロレンソはビノンド教会でミサのときに司祭に奉仕する役を務めるようになった。カトリックの修道会であるドミニコ会から教育を受けた後、エスクリバーノ (代書人)として活躍。私生活ではロザリオという女性と結婚し、2人の息子と娘1人をもうけ、平穏に暮らしていた。
だが、ビノンド教会の事務員として働いていた1636年、スペイン人殺害の無実の罪を着せられてしまう。ロレンソはドミニコ会の助けを得て、宣教師らと船に乗って逃亡した。船がマカオへ向かうと思っていたロレンソだったが、到着したのは琉球だった。
日本での迫害に耐え殉教
フィリピンの守護聖人
当時、日本の江戸幕府はキリスト教徒を迫害し、ロレンソと同行者2人は捕らえられて牢獄に収容された。1年後、長崎に移送されると、ロレンソらは棄教させるために凄惨な拷問を受けた。一緒にいた2人は、拷問に耐えかねて棄教したが、ロレンソは裁判で棄教かもしくは殉教かを迫られると次のように宣誓した。
「私はキリスト教徒である。死ぬまで、神にこの命を捧げるときまで、このことははっきりさせておく。日本へは殉教ために来たのではないが、それでも、キリスト教徒として、私は神に命を捧げる」
翌日、拷問の前に裁判官から棄教すれば命を助けると言われたロレンソは、次のように答えた。
「決して棄教はしない。なぜなら私はキリスト教徒であり、神のために死ねるからである。もし私に何千もの命があったとしても、私はそれを神に捧げる。私を好きにするがいい」
ロレンソは大量の水を飲ませられる水責めを2日間に渡って受け、水と血を激しく吐いた。この拷問に耐えたロレンソはほかの4人とともに、長崎の西坂の丘へ連れて行かれた。足を縛られ、縦に掘った穴の中に逆さにつるされたロレンソは血まみれで呼吸困難になりながらも棄教しなかった。そして1637年9月29日、42歳で亡くなった。遺体は火葬され、遺灰は海にまかれた。
1981年、ローマ教皇ヨハネパウロ2世がマニラを訪れた際に、ロレンソ・ルイスはカトリック教会における福者とされ、1987年にはフィリピン人として初の聖人となった。
(初出まにら新聞2024年5月28日号)