西ビサヤ出身の法律家は
フィリピン独立の第一人者
マニュエル・アクナ・ロハスはフィリピンの第5代大統領であり、独立準備政府(コモンウェルス)の3代目および最後の大統領である。また、フィリピン第三共和国としては初代大統領にあたる。
ロハスは1892年元旦にカピス州カピス市(現在のロハス市)で生まれた。フィリピン大学で法学を学び、司法試験を上位で合格したロハスは同大学法科大学院とナショナル大学で教授となる。その後最高裁判事の秘書職を経て、カピス市議会議員として政界入り。1919年から約3年間カピス州知事を務め、1922年には下院議員となり12年連続で下院議会議長を務めた。国策議員も務めていたロハスだが、当時のフィリピン総督であった米国人レオナルド・ウッドが議会で可決された法案に拒否権を発動し始めたことに抗議し、上院議長だったマニュエル・ケソンとともに1923年に辞任した。
1932年にはナショナリスタ党の党首だったセルヒオ・オスメニャとフィリピン独立を目指し米国ワシントンDCを訪れ、フィリピンの米国からの独立日を定める法律の成立に貢献した。
日本軍と米軍の狭間で
波乱乗り越え大統領に
第2次世界大戦中の1942年、ロハスは日本軍の捕虜の身として、親日であった当時の大統領ホセ・ラウレル政権の最高顧問として従事する。米の調達など日本軍への支援を続けたが、これは共産主義を掲げる抗日人民軍「フクボン・バヤン・ラバン・サ・ハポン」に反対する意思表示だったとされる。また、日本軍の捕虜でありながら、連合国軍最高司令官のマッカーサーに情報提供をしていた。
1945年の終戦の際にはバギオでアメリカ軍に降伏し捕らえられたが、マッカーサーがロハスの情報提供による貢献を公開したことで、救われる。この件について、ロハスがマッカーサーの弱みを握っており、脅迫材料として利用したことで難を逃れたとも言われている。
ナショナリスタ党から立候補した1946年大統領選では、133万3392票、投票率54%で当選し、第5代大統領に就任した。同年7月4日にフィリピン独立宣言が発表され、独立準備政府最後および第三共和国初代大統領となった。
(初出まにら新聞2023年12月26日号)