中国からの移民家庭に出生
家業を拡大、百貨店を経営
中華系フィリピン人の実業家、 慈善活動家、そしてスペインからの独立をめざす秘密結社カティプナンの支援者としても知られるオンピン。1847年、ビノンドで中国・福建省からの移民家庭に生まれ、キャンドル工場を経営する父親から教育を受け、ビジネスを学んだ。
35歳のときにキャンドルだけでなく、日用品、衣類、建築資材などあらゆるものを扱うビジネスを手がけるようになり、1883年には「EL82」という名前の百貨店をビノンドに開く。定価を導入し、商品を馬車で客の元へ届けて代金を受け取るスタイルが成功し、財を成した。EL82は、当時マニラで唯一の画材やカメラを扱う店でもあった。これは、オンピンが22歳で結婚した妻パスクアラが、「フィリピン絵画の父」と呼ばれる画家ダミアン・ドミンゴの孫だったことも関係があると思われる。
オンピンはホセ・リサールと親しく、ホセが処刑された後に遺体を引き取り、埋葬に立ち会った1人だった。秘密裏にカティプナンを支援し、食料や武器や弾薬を買う資金を与え続けたとされる。
米国に反感、筋金入りの愛国者
子どもに厳格な教育を施す
オンピンには2度の逮捕歴がある。スペイン統治時代に塗装用具の配達を装って銃と弾薬を運んだ容疑で逮捕され、米国の統治下でも7カ月間拘留された。逮捕されたとき、スペイン人からはそれなりに良い扱いを受けたものの、米国人からはひどい扱いと受けたことから反米を徹底し、自分の店は米国人を立入禁止にして、子どもたちにも米国製品を買わせなかった。
筋金入りの愛国者であり、子どもには当時の第一言語であるスペイン語ではなくタガログ語を話させ、常にバロンタガログを着させた。独立記念日の6月12日には店にフィリピンの国旗を掲揚し、米国から問題ある行動と注意されても意に介さなかった。なお、オンピンと妻パスクアラは16人の子どもをもうけたが、そのうち成人したのは娘4人、息子5人の9人だった。
1912年12月10日、心臓病のため永眠。65歳。マニラ北部墓地に埋葬された。生前の功績を称え、1915年9月にビノンド教会のあるカレ・サクリスタ(Calle Sacristia)は、オンピン通りに名称が変更された。
(初出まにら新聞5月21日号))