聡明だった青年時代
医学の道から転向
第3代大統領のホセ・P・ラウレルを父に持つサルバドール・ラウレル。「ドイ」の愛称で知られ、父同様、法律家であり政治家である。第二次世界大戦終戦間際に15歳の青年であった彼は、当時大統領だった父と家族とともに日本の奈良へ亡命。その後、父ホセが戦犯として刑務所へ収監されることとなり、残された家族はマニラに戻った。亡命生活でさぞ苦労しただろうと思えば、読書に明け暮れ、同じく亡命していた良き指導者の元教育相カミロ・オシアスと読んだ本について語り、父と奈良の公園で朝の散歩を楽しむなど、彼の人生において思い出深い生活を送ったという。
フィリピンに帰国後は、兄全員が法学の道に進む中、ただ一人医学の道へ進む。しかしフィリピン大学医学部に入学してから2年後、法学へと進路変更。卒業後は父ホセと同じく米国イェール大学で修士号と博士号を取得した。イェール大学のマクドーガル教授はラウレルについて、「ドイは父親と同じように、イェールですばらしい研究者だった。教え子はたくさんいるが、その中でもドイは特に優秀」と語っている。
最年少で政界入り
3つの重要ポストを兼任
ラウレルは1967年の上院選で初当選し、38歳で政界入りを果たす。戦後のフィリピンでは最年少のナショナリスタ党上院議員となり、記録はその後40年間破られなかった。戒厳令が敷かれたマルコス元大統領の時代には、演説で民主主義を取り戻そうと国民に呼び掛け、独裁政権崩壊に貢献した。
1986年には、2月末から首相職が廃止された3月末までの1カ月間、フィリピン史上ただ1人、副大統領、首相、外相の3ポストを兼任した。外交でも手腕を発揮し、1986年の中国公式訪問は「フィリピン外交の方向転換を示す画期的な出来事」と評価されている。1992年には大統領選に出馬したが当選には及ばず、政治家としてのキャリアで初、そして唯一の落選を経験した。
大統領選の1年後、ラモス元大統領によって、1898年6月12日のフィリピン独立100周年記念式典に向けた国家100周年委員会の委員長に任命。100周年記念式典後に辞任することになっていたが、当時のジョセフ・エストラーダ大統領はラウレルの任期を延長し、1999年まで委員長を務めた。その後公務からは引退し、弁護士、国際コンサルタント、無料法律扶助、本の執筆、また、党首を務めたナシオナリスタ党の活動に力を注いだ。
(初出まにら新聞2023年12月12日号)