キリシタン大名としての人生 

 

 摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身で、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名である高山右近。12歳のときに、右近の父、高山友照とともに洗礼を受け、キリシタンとなる。洗礼名は「ジュスト」(Justo)。キリシタン大名と呼ばれたキリスト教を信仰する大名たちの中でも、強い信仰心と影響力を持ち、日本のキリシタンで中心的役割を担っていたと言われる。

 

 なぜ日本人である彼の像がマニラにあるのか。それは右近が最期を迎えた場所がマニラだったからである。幼少期からキリスト教徒として生きた右近は、成長とともに、武将としての精神とキリスト教信仰の両立が難しいことに気づき、苦悩する。一方で、暗殺されそうになって、首を切られる重傷を負い、約2カ月間生死をさまよった後に、無事生還する。この経験により右近は深い信仰心を持つようになったという。

 

 1587年、豊臣秀吉による「バテレン追放令」(キリシタン宣教師の国外追放令)が施行された。この際、多くのキリシタン大名たちは、表立った活動を控えることで棄教せずに追放令を逃れたが、右近は断固として信仰を曲げなかった。しかし、キリシタン仲間たちにかくまわれ、このときは国外追放を免れた右近も、徳川家康のキリスト教の禁教令と国外追放の命令には従うことになる。そして、人々が引き留める中、一族を引き連れて、ついに日本を去ることを決意した。このときの行先がマニラであった。

 

 

マニラ市パコのプラザディラオ比日友好公園(Plaza Dilao, Paco, Manila)に建つ高山右近像(1553~1615)。石碑には、「LORD JUSTO UKON TAKAYAMA」の文字とともに、フィリピノ語で高山右近についての解説が書かれている。

 

 

 

マニラで迎えた最期

 

 約1カ月の船旅を終え、マニラに到着すると、右近は盛大な歓迎を受ける。イエスズ会や宣教師による報告で、右近のキリシタンとしての宣教活動ぶりや厚い信仰心はマニラにも届いていたのである。しかし当時63歳だった右近は、長旅の疲れや老齢により、病気になり、マニラ到着からわずか40日で息を引き取った。最期を迎えた地は、リサール州アンティポロだったとされる。葬儀はマニラ市イントラムロス内にあった聖アンナ教会にて、10日間に渡って執り行われた。
 1977年には、大阪府高槻市とマニラ市、財団法人東南アジア文化友好協会などにより、マニラ市パコにプラザディラオ比日友好公園が開園。高山右近像が設置された。

 

高山右近像とともに設置されている比日友好の碑

 

 

(初出まにら新聞2023年11月21日号)