ホセ・ラウレル大統領
José P. Laurel(Former President of the Philippines)
マニラ市ロハス大通り沿い

マニラ市にあるニューワールドホテルそばのロハス大通り脇の芝生に、高さ7メートルほどの真っ黒い銅像がある。左手を腰に当て右のこぶしを突き上げ、マニラ湾に向かって立つ力強い表情の人物は、日本軍政時代にフィリピン大統領を務めたホセ・ラウレル氏だ。父はアギナルド初代大統領の閣僚を務めた政治家一族の出身で、バタンガス州の生まれ。戦前、ダバオの日本人移民の麻農園が「バゴボ」など先住民名義で土地を取得していたことなどから反ダミー法で訴えられ存続そのものが脅かされたとき、日本移民を弁護しその権利を擁護したのが法律家ホセ・ラウレル氏だった。そういったいきさつから、戦争が始まったとき真っ先にラウレル氏に日本軍の白羽の矢が立ったのは自然だった。ケソン大統領はマッカーサーとともにコレヒドール島に立てこもり、ワシントンに亡命。そのいっぽうでマニラ残留を余儀なくされたラウレル氏ら政治家たち。
「日本軍の無謀な要求をかわしながらいかにしてフィリピン人を守るか…」。あからさまな対日協力は国民感情を裏切ることにもなりかねなかった。ラウレル氏は戦後、「誰もがこのようなことは勘弁してもらいたいと思った」と述べている。
1945年3月、日本の敗戦色が濃くなりラウレル大統領らはフィリピンを脱出して日本に亡命、奈良に住んだ。戦後、日本側の戦犯たちを収容した巣鴨プリズン内で書き綴った回顧録には「私はマニラに残り軍事占領下にあるマニラや地方に住む民衆を守るために自分の最善を尽くした」(「戦争回顧録」)とある。ラウレル氏は46年7月に帰国後、マニラ人民法廷で対日協力の戦争責任を問われたが放免され、51年には上院にトップ当選し政界に復帰した。
ラウレル氏の次男は駐日大使(1966年~71年)、5男サルバドール氏はコラソンアキノ政権下で副大統領を務めた。
愛国者ホセ・ラウレル氏は日本人にとって忘れてはならない恩人の一人といえる。
◎ Navi Manila Vol.27 より