1970年代のマカティ – 第2回

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2017年3月29日

ルスタンスデパート。現在のものより車体が短いジプニーが時代を物語っている。

ルスタンスデパート。現在のものより車体が短いジプニーが時代を物語っている。


 
by 高木 妙子 

外国人駐在員やフィリピンの富裕階級の人々が住む住宅は、石の塀で囲まれたビレッジと呼ばれる住宅区で、入り口にはライフル銃を手にしたガードマンが立って見張っていた。今ではライフル銃こそ持たなくなったが、ビレッジ毎に車のステッカーやIDカードの携帯が義務づけられ、出入りする車や人のチェックをしている。
1970年代のマカティは発展途上で、ビレッジはできていても塀の中の住宅の建設はまだまだ進行中で、既にあったビレッジは南北のフォルベスパーク、ウルダネタ、サンロレンソ、ベルエア、サンミゲル、パーム、ダスマリニャス、マガリャネスなどで、後者2つはまだ新しく、空き地が目立っていた。
当地の超上流階級の人が住むフォルベスパーク、新設のダスマリニャスビレッジには、日本人では大使公邸ほか大手一流企業の支店長が住むくらいで、一般の駐在員は今のようなコンドミニアムはまだなかったため、サンロレンソ、ベルエア、マガリャネス、サンミゲル、パームなどのビレッジの一軒家かデュープレックス(長屋風住宅)に住んでいた。当初は大使館に登録している日本人の数が約600人といわれ、通貨は1ペソが90円の時代だった。
家賃は前者のビレッジで、月4,000~6,000ペソ位、後者で月600~1,500ペソ位で、全て月払いだった。
我が家の家賃は月1,000ペソで、当時は今のような年間支払いではなかったので、月ごとに家賃を払うため大家さんと会う機会も多く、お付き合いも深かったように思う。
サンタマリアさんという、フィリピン航空の機長をしていた初めの大家さんは、実に欲のない人で、自分からは値上げを一度も言ってきたことはなく、家賃はいつも据え置きだった。同じ会社内の他の人との釣り合いもあるので、こちらから修理のリクエストなどを出して、お願いして値上げしてもらっていたほどだ。毎年クリスマスプレゼントを届けにケソン市のお宅に伺うと、大きなクリスマスツリーの下には、我が家の家族一人一人の名前の付いたプレゼントが用意されていた。遠く日本を離れて日本人も情報も少ない中で、そうした温かさは心に浸る思いであった。
日本人は中堅社員にならないと海外駐在に出されない時代で、20才代の人はとても少なく、25才で来た私は初めの一年、友人や情報を得るのに本当に苦労した。周りは皆お子さんのいるお母様ばかり。当時の日本人学校は全日制に移行する時期で、どのお子さんも小学校から平日は現地校もしくはインターナショナル・スクールに通い、週末、マニラ市のタフト通りにあった日本大使館広報文化センター内の補習校に通学していた(1968年6月現在72名)。その後全日制へ移行し、1978年にはパラニャーケに建てられた新校舎でのマニラ日本人学校(在フィリピン日本国大使館附属。始業時の生徒数は小学生、中学生全校で358名)に移り、2001年より現在のボニファシオ・グローバルシティ(BGC)の学園地区に新築し移転した。
1980年頃のペニンスラ・ホテル(マカティ通りとアヤラ通りの交差点)。手前は今もあるガブリエラ・シランの銅像。

1980年頃のペニンスラ・ホテル(マカティ通りとアヤラ通りの交差点)。手前は今もあるガブリエラ・シランの銅像。


 
◎ Navi Manila Vol.28 より

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