語学堪能な秀才
欧州留学、日本にも滞在
フィリピン史を語る上では避けて通れない人物、ホセ・リサール。ルソン地方ラグナ州カランバ市出身のリサールは本名をホセ・プロタシオ・メルカド・リサール・アロンソ・イ・レアロンダという。中国系とスペイン系の混血でメスティーソと呼ばれたリサールは、8歳でタガログ語とスペイン語を習得。初等教育を修了し、16歳でアテネオ・デ・マニラ大学に入学、農学を専攻した。また母親が目の病気を患ったことをきっかけに、当時のフィリピンの最高学府サントトマス大学で医学も学んだ。
両大学を卒業後、スペインの国立マドリード大学に留学したリサールはそこで多くの語学力を身に着けた。26歳の時点で、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、中国語、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語を習得し、中国語、日本語、タガログ語、ビサヤ語、イロカノ語も研究対象であったという。一方で、大学での専攻は医学と哲学、文学だった。さらにフランス、ドイツにも渡って勉学を続け、ドイツ滞在中に執筆、出版された『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere、「我に触れるな」の意味)』はリサールの代表作である。
1888年には日本にも2カ月間滞在し、貿易商の娘のおせいさんこと臼井勢以子と親密な関係になったことを日記に記している。日本を離れて米国へ向かう船で一緒になった英語を話せない日本人が、「親切なフィリピン人青年が助けてくれた」とリサールについて記しており、2カ月間の滞在でかなり日本語が上達していたことが伺えるエピソードもある。
社会改革を目指した英雄
向かえたのは無念の最期
1892年にフィリピンに帰国したリサールは、社会体制の改革を目指す同盟「ラ・リガ・フィリピナ」を結成した。この同盟自体は急進的で暴力に訴える革命を望まず、穏健な改革を目指していたが、これまでの出版物の内容やリサール自身が反植民地主義を掲げていたことからスペイン当局はリサールを危険視していた。そして当局によって逮捕され、ミンダナオ地方サンボアンガ州ダピタン市に流刑となった。
ダピタンで医師や教師としてしばらく生活をしたのち、かねてから志願していた軍医となる。キューバへの派遣を許可されミンダナオを離れることとなったが、このとき秘密結社カティプナンがフィリピン独立闘争を開始したことにより、リサールが乗船していた船が地中海へ入ったところでリサールも指導者の1人として逮捕された。
マニラに送還されたリサールは軍法会議にかけられ、有罪および銃殺刑を言い渡される。1896年12月30日午前7時、マニラのバグンバヤン(Bagumbayan、現在のマニラ市ルネタLuneta)で多くの民衆が見守る中、刑が執行され、英雄の人生は35歳で幕を閉じた。現在この日はフィリピンでは国民の祭日「リサール・デー」となっている。
(初出まにら新聞2024年3月26日号)