前編(ナビマニラVol.67掲載)では、60歳の私がバギオに留学した理由と個性豊かなフィリピン教師たちをご紹介した。後編は、英語学校のJICで出会った留学生たちと新型コロナの影をかすかに感じながらも、バギオライフを満喫していた日々。そして突如、ルソン島全土に発令された都市封鎖に直面し、留学継続を断念、緊急帰国した怒涛の留学体験を報告する。

 

様々な留学生たちが行き交うクロスロード

 

 1月5日、私と同時期に入学した日本人の生徒には、4月からの就職を控えた大学生も多かった。他国の学生も巻き込み、場の盛り上げ役をいつも買って出る日本人学生もいて、「日本人の学生はおとなしい」という私の先入観を覆してくれた。
 韓国からは大学生だけでなく、小学校低学年の子どもを連れた母親たちも多く見かけた。さすが日本以上に教育熱心な国だ。兵役を終えた学生、これから兵役を務める学生の話を聞くと、身近に軍事的な緊張がある国だとあらためて感じる。
 台湾の学生は、クラストップの学生もいれば、中国語なまりで音読が苦手な学生もいた。いじめと思える程の教師の厳しい叱咤にもめげず、学び続ける学生の姿に私も励まされた。
 サウジアラビアをはじめとする中近東の学生の多くは、破天荒で明るく心優しい。いつも校内に話題を提供してくれる。戒律の厳しいイスラム教徒のイメージからは、ほど遠い。
 2週間ごとに入学・卒業の入れ替えがあるため、学生の顔ぶれも大きく変わる。2月になると日本からは、社会人の日本人女性が目立った。中でも看護師さんが多い。他にも観光業、接客業、劇団員など多士済々。英語を学ぶだけでなく、日本で身にまとった窮屈な殻を破って、新しい自分をバギオで見つけているようにも思えた。
 私のルームメイトは、演劇を学び、ハリウッドスターになるため、英国の大学への留学を目指す20代前半の日本人青年だった。日本人と日本語で言葉を交わすことを極力避けて、起きてから寝るまで、英語と肉体を鍛えるストイックさに圧倒された。6カ月間の留学期間を終え、帰国した彼の部屋に「ROAD TO HOLLYWOOD」、「WIN THE ACADEMY AWARDS」と書かれた貼り紙に気づいた。「I WISH YOUR DREAMS COME TRUE」と私はつぶやきながら、エールを送った。

 

留学生仲間と出かけたバギオの観光名所マインズビューにて。

多様な国からの留学生と学ぶことができたのは有意義な経験。

 

忍び寄るコロナの影

 

 3月の初め、日本では大型クルーズ船での感染拡大や全国の小中高一斉休校などで、にわかに新型コロナへの不安が広がった。日本の感染者が500人前後の頃、フィリピンの感染者は1桁台であり、日本に帰るより、感染者のいないバギオに延長して滞在している方が安全だと感じていた。
 バギオ最大のお祭り「フラワーフェステイバル」も、延期して開催できると思っていた。3月最初の週末は、バーンハイム公園でテニスを楽しんだり、NGOのコーディリエラ・グリーン・ネットワーク(CGN)が主催する森林栽培有機コーヒーのテイスティングイベントに参加するなど、バギオライフを満喫していた。ただし、日本から3月3週目に語学学校に入学した生徒から、2週間、他の学生に接触しないよう授業、食事、宿泊場所を別室に設けるなど感染対策を徹底する準備がなされ、学校内に緊張感が漂い始めた。

コーディリエラ・グリーン・ネットワークによる森林栽培有機コーヒーを見学。

 

突如の都市封鎖と緊急帰国

 

 3月12日、朝からフィリピン教師たちの顔色が悪い。マニラ首都圏の都市封鎖が宣言された。3月16日の夜、ルソン島全土の都市封鎖が宣言され、海外からの渡航者は、19日までに帰国できるが、それ以降、最低1カ月間、帰国はできないという大統領令が発せられた。
 公共交通機関が完全に止まる中、バギオの語学学校が共同でバンを手配した。そのまま学校に留まることを希望する日本人学生が、意外に多いことに驚いた。私は、CGNが手配してくれたバンで、マニラまで向かうことにした。マニラを目前にして途中の検問で通行を許可されずバギオに戻された留学生もいたと聞いた。それだけにマニラのホテルに入るまで肝を冷やし続けていたが、無事帰国ができたのもサポートしていただいた方々のお陰である。
 3カ月以上が過ぎた今も、語学学校の再開は見通せないと聞く。バギオで共に学んだ学生たちが、コロナウイルスと共存する時代になっても、たくましく自分の道を歩み続けていることを願っている。

(愛知県立大学多文化共生研究所 客員共同研究員、中京大学非常勤講師  日丸 美彦)

封鎖され人も車も消えたバギオの中心地。