8月は国語月間

 

 みなさん、こんにちは!Kumusta kayo?  8月はフィリピンの「国語月間」(Buwan ng Wika)です。国語月間は「フィリピン国語の父」と呼ばれるケソン元大統領の誕生日の8月19日に合わせて制定されたものです。今回は、国語月間にちなんでフィリピンの「国語」について解説します。

 

ケソン・メモリアルサークルにあるケソン元大統領の像 Photo:Creative Commons (CC BY-SA 4.0)Julan Shirwod Nueva

 

 

 

フィリピンの国語の歴史

 

 

 フィリピンでは昔から各地方でビサヤ語やイロカノ語など、それぞれ独自の言語が使われていましたが、スペインやアメリカの植民地となり、スペイン語や英語が公用語とされました。そしてアメリカ統治下の1937年、現地語に基づく国語 (Wikang Pambansa)の整備が規定されました。この時の大統領が前述のケソン大統領です。フィリピンの諸語を代表する識者が話し合った結果、その国語はタガログ語に基づくものとすることが決められ、1939年にはロペ・K・サントス(Lope K. Santos)がタガログ語文法を編纂(へんさん)、20文字のアルファベットを用いて表記することになりました。これには外来語にしか使わないCやFは入っていません。例えばCを使ったcaや coはKを用いてka やkoとして表記されたのです。ABCD…ではなくABKD…となったことから、フィリピン独自の20文字のアルファベットは「アバカダ」と呼ばれました。

 

 

 さて、終戦後の1959年には「国語」をピリピーノ(Pilipino)と呼ぶことが憲法で規定されます。さらに1973年憲法ではピリピーノと英語を公用語とすることが定められ、ピリピーノに代わってフィリピーノ(Filipino)と呼ばれる新たな国語の確立に向けて準備を進めることが規定されました。その後、エドサ革命後の1987年憲法で、フィリピンの国語は最終的にフィリピーノと定められ、文字もアバカダの20文字にCやF、JやVなどの8文字を追加した28文字のアルファベットが決められました。つまり現在のような形になったのは、たった30年ほど前のことなのです。

 

 

タガログ語とフィリピン語

 

 

 ではタガログ語とフィリピン語は同じものなのでしょうか。以前もこのコラムで少し触れたことがありますが、その答えはイエスでもありノーでもあります。フィリピン語の文法構造はタガログ語の文法に基づいており、「フィリピン語」を話している人と「タガログ語」を話している人は相互に理解できることから、言語としては同じものと考えられます。しかし、地方語の語彙や外来語を含めているので純粋なタガログ語ではない、とも言われます。外来語を全く含まない言語というのは実際にはありえないので、一つの国の共通の言語、アイデンティティとしての国語を便宜的に「フィリピーノ」と呼んでおり、フィリピンの諸言語も含めているというのは、地方への配慮に過ぎないと思われます。また国語としてのフィリピン語であるフィリピーノに対しては、英語の方が国際的に使う言葉だから重要であるとか、タガログ語に基づく国語で教育を行うことで地方出身者が不利になるという議論もあります。

 

 

庶民の心をつかんだのは?

 

 

 しかしこの流れが変わってきたのはエストラーダ政権(1998年から2001年)の頃です。エストラーダ元大統領はフィリピン語による演説を多用することで庶民にアピールし、当選しました。ちょうどこのころから英語が中心だったテレビのニュースもフィリピン語のものが多くなり、その後の大統領も国民向けの演説でフィリピン語を多用するようになりました。ケーブルテレビも地方に浸透し、以前は英語のままだった海外の映画もフィリピン語の吹き替え版が放送されるようになってきました。思えばドゥテルテ現大統領も英語の原稿はあまり読まず、後はフィリピン語で冗談を言い、自論を展開するというスタイル。庶民はこの人は自分のわかる言葉で話す普通のおじさんだと親近感を感じて、投票したのではないでしょうか。地方も含め、国民全体にフィリピン語が浸透してきている表れだと思います。

 

 

 ドゥテルテ氏の任期はあと10カ月を切り、連日のように次期大統領、副大統領候補について報道されています。次の選挙においても庶民の心に近い言語を話すことが、当選の決め手となることは間違いないでしょう。

 

 

 

 

文:デセンブラーナ悦子 日英・タガログ語通訳。大阪外大フィリピン語学科卒。在学中にフィリピン大学に交換留学。フィリピン人男性と1992年に結婚後マニラ在住。

Twitter:フィリピン語ミニ講座@FilipinoTrivia