みなさん、こんにちは。Kumusta kayo? 昨年の12月30日はフィリピン独立運動の父、ホセ・リサールの処刑から125年でした。リサールは1888年に2カ月ほど日本に滞在したことがありますが、その時、日本の民話「さるかに合戦」について聞き、フィリピンに伝わる「猿と亀(Si Pagong at si Matsing)」とそっくりなことに驚いたようで、その翌年ヨーロッパで「二つの東洋の物語」として日本の「さるかに合戦」とフィリピンの「猿と亀」の比較考察を発表しています。

 

 

猿vs.蟹と猿vs.亀

 日本の「さるかに合戦」は、猿と蟹がおにぎりと柿の種を交換するところから始まります。蟹が植えた柿の木が育ち実を付けると、猿は柿の実を全部食べてしまいます。そして、猿に投げつけられた青い実が当たって母蟹が亡くなってしまいます。そこで子蟹のために、栗や蜂や臼(うす)らが仇討ちをし、猿をやっつけるお話でした。

 


 一方、フィリピンの「猿と亀」では、まず川を流れてきたバナナの木を、猿と亀が分けあいます。猿は葉と実のついた上部を取り、亀はバナナの茎と根っこの部分を植えて育てます。バナナが実ると、猿が登って実を取ってきてやると言いますが、結局一人で全部食べてしまったために、亀の仕返しが始まります。亀はバナナの幹に棘(とげ)を埋め込み、ココナツの殻の下に隠れます。降りてきた猿は足にささった棘を抜こうと落ちていた石に座りますが、亀が隠れているココナツの殻の中にしっぽが入ってしまいます。そこで、亀が猿のしっぽをガブリ。噛まれた猿は、亀を捕まえ「臼で亀を砕いて川に流してやる」と脅します。すると亀は、「臼で私を砕いても殻が硬いから平気。でも川に流されたら溺れてしまう、どうか流さないで」と命乞いをします。猿は、亀は本当に水が怖いのだろうと思い、川に投げ入れたところ、亀はスイスイと泳いで逃げてしまった、というお話です。

 


 「さるかに」では栗や蜂などがチームワークで猿に仇討ちするのに対し、「猿と亀」では亀が知恵を絞って一人で猿に立ち向かい、最後は亀が猿を出し抜いて逃げてめでたし、という違いがあります。

 

 

ホセ・リサールが1886年にフランスで描いた猿と亀のイラスト。(Wikimedia Commons, Public Domain , Source : Mga Akda ni Rizal at e-learning of the National Historical Commission of the Philippines)

 

 

 

国境を越える民話

 

 リサールは、フィリピン発祥の民話が日本にも伝わったのだろうと考察していますが、海を越えて民話が伝播するのは珍しいことではありません。例えば日本の「猿の生き肝(いきぎも)」(または「クラゲ骨なし」)は古代インドやインドネシアにもよく似た話があります。フィリピンでもこれが「猿とワニ (Ang Unggoy at Ang Buwaya)」として伝えられているので、「さるかに」と「猿と亀」も案外インド辺りの発祥なのかもしれません。

 

 

リサールの思想を継承

 

 リサールはスペインによる植民地支配批判とも取れる小説「ノリ・メ・タンへレ(我に触るな)」と、その続編「エル・フィリブステリスモ(反逆)」をヨーロッパで出版しています。リサールは1冊目の出版後フィリピンへ帰国しますが、植民地政府に狙われたため、逃れるように海外留学を決め、ヨーロッパへ向かう前に日本を訪れます。リサールは、1人で知恵を使って猿から逃れるフィリピンの亀の物語と、母親を殺された蟹のために臼や蜂たちが協力して猿に立ち向かう日本の「さるかに」との類似点や違いを自分の姿とも重ね合わせたのかもしれません。リサールはヨーロッパに着くと友人に「ラ・リガ・フィリピーナ(フィリピン民族同盟)」結成の計画を打ち明けたと言いますが、それが「さるかに合戦」の影響かどうかは、今となってはわかりません。

 


 リサールは「エル・フィリブステリスモ」出版後、帰国してラ・リガ・フィリピーナを結成し、革命よりも政治的改革を目指しましたが、捕らえられ流刑の後、処刑されます。その後、抑圧からの解放を願う思想は、ボニファシオらによるフィリピン独立運動や、近年ではマルコス政権末期の民主化運動へと引き継がれていくことになるのです。

 

 

 

 

文:デセンブラーナ悦子 日英・タガログ語通訳。大阪外大フィリピン語学科卒。在学中にフィリピン大学に交換留学。フィリピン人男性と1992年に結婚後マニラ在住。

Twitter:フィリピン語ミニ講座@FilipinoTrivia