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【フィリピノ・ワールド】フマボンとラプラプ

2021年4月5日

 

 みなさんこんにちは!Kumusta kayo?  前回は族長時代のフィリピンの社会階級についてご紹介しましたが、その制度を揺るがすきっかけとなったのが、1521年のマゼラン率いるスペイン船団の渡来です。セブの族長フマボンは、見たこともないような大きな船でやってきたマゼランたちと戦っても、とても勝ち目はないと考えたのか、あるいはフィリピンで尊重されるpakikisama(パキキサマ「相手に合わせる精神」)やpakikipagkapwa (パキキパグカプワ「互いを尊重する心」)のためか、マゼランたちを歓待し、sanduguan (サンドゥグアン「一つの血となる誓い」)を交わしました。サンドゥグアンというのは、同盟関係を結ぶ人同士が、自分の腕に傷を付け、盃に入った水に落とし、それを飲む儀式です。フマボンの方はスペインに忠誠を誓い、村人たちと共にカトリックの洗礼を受けました。

 

 

マゼランは勘違いしていた?

 

 マゼランの信頼を得たフマボンは、マゼランに取引を持ちかけます。実は隣のマクタン島にラプラプという敵がいるので攻撃してくれないか、というのです。フマボンはラプラプの姪と結婚しており、ラプラプとは同盟関係にありましたが、ラプラプはマクタン島という地形を利用し、セブに入ってくる船を止めることがあったため、よくもめていたというのです。マゼランたちはマクタン島へ向けて、夜明け前にセブを出発しますが、マクタンは遠浅の岩場だったため、沖に停泊し、岸まで海の中を歩いて近づくしかありません。ところが、実はラプラプは、この襲来を事前に知り、戦闘の準備をして待ち構えていたのです。

 

 マゼランに同行したピガフェッタの記述によると、マゼランたちは、フマボンをマクタンを含めた地域を治める王だと思い違いをしていました。マゼランはラプラプに対し「この地を治めるフマボン王は、我々に忠誠を誓い、洗礼を受けた。あなた方も王に従い、私に頭を下げなさい」と宣言します。歴史学者のウィリアム・ヘンリー・スコットは、これがラプラプの怒りを買ったのではないかと推察しています。

 

マクタン島に立つラプラプ像

 

戦略家だった? フマボン

 

 

 この戦いでマゼランは命を落とします。マクタンでの戦いの際、フマボンの家来たちは同行して一部始終を見届けていますが、参戦はせず、負傷したスペイン人たちをセブに連れ帰り手当をしています。サンドゥグアンでの同志の誓いの義務を果たしたということでしょう。ところが傷の癒えたスペイン人達が、その恩も顧みず、村の女性を辱めた上、族長の権利を奪おうと計画していることをマゼランの奴隷から聞いたフマボンは、彼らを招待して宴を開き、その場で彼らを毒殺しようとしました。こうして見るとフマボンは、マゼランとラプラプのどちらが勝っても自分に不利にはならないように立ち回った戦略家であったようにも見えます。生き残ったスペイン人は命からがらスペインへ逃げ帰りますが、5隻270人で出発したうち、スペインに帰ることができたのはたったの1隻17〜18人でした。

 

 

フィリピン人らしさが招いた植民地化?

 

 その後ラプラプとフマボンは互いの関係を修復し、ラプラプは11人の子供たちとともに出身地のボホール島へ帰ったと言われます。後世になってラプラプは、西洋からの侵略者に屈しなかった初めてのアジア人として、フィリピンの英雄の一人とされました。

 

 
 マゼラン到来から約20年後の1543年にはヴィリャロボス、1565年にロペス・デ・レガスピがフィリピンに到着し、本格的なフィリピン征服が始まります。ラプラプのように侵略者達と戦おうとした族長たちは武力により制圧され、それ以外の多くの族長達は、フマボンと同じようにスペイン人たちを迎え入れ、同盟を結ぶことで、次々と植民地にされていきました。スペイン人が来るまでの族長たちはパキキサマの精神で、客人を歓待し平和を維持してきましたが、その習慣が逆に植民地化にうまく利用されてしまったのだと言えるでしょう。

 

 

 

文:デセンブラーナ悦子
日英・タガログ語通訳。大阪外大フィリピン語学科卒。在学中にフィリピン大学に交換留学。フィリピン人の夫と1992年に結婚、以後マニラに暮らす。趣味はダンスだが、最近は時間が取れないのが悩み。