Historic Architecture and Japanese Pioneers in Northern Luzon

ルソン島北部の深い山に囲まれた地域に、かつて住んでいた日系人による建築物が残っている。100年以上の歳月を経た建築物とその歴史を知る人々。バギオ、サガダ、ベサオに私たち在住邦人の先達の足跡を訪ねた。

In the Northern Luzon provinces, there are historic buildings for which Japanese immigrants labored in the early 1900s. A young Japanese traced the history of these 100-year-old buildings in Baguio Benguet, Sagada and Besao, Mountain Province.

文・写真:高橋 侑也 Text and Photographs by Yuya Takahashi

Baguio バギオ
Benguet Province

 

▲ バギオの観光名所旧ドミニコ会修道院。バギオの中心部からタクシーで約20分。 Dominican Hill and Retreat House is Baguio’s popular tourist spot.

 

ーディリエラ地方べンゲット州バギオ市に20世紀初頭、多くの日系人が住んでいた。バギオに日系人が住むようになった契機は、米国統治時代の植民地政府によるマニラとバギオを結ぶベンゲット道路建設工事である。この道路の建設は山岳地帯の険しい地形と厳しい雨季の気候に耐えなくてはならない難工事で、遅々として進まなかったという。1903年に工事責任者となったケノン少佐は、この状況を打開するためフィリピン人に加えてコーディリエラ地方出身の山岳民族イゴロット、米国人やスペイン人をはじめとする欧米人、さらに当時米国領内で移民を禁止されていた中国人や日本人の移民を超法規的に受け入れた。労働者の奮闘や道路設計の見直しによってケノン少佐就任の2年後、1905年にベンゲット道路は完成した。この道路はケノンロードと呼ばれ、現在もマニラとバギオ間の交通に利用されている。

洋風建築に生きる職人の技

道路が完成した後もバギオをはじめとするコーディリエラ地方に留まった日本人がいた。そのうちの1人、テルジ・オオクボ氏の孫、パトリシア・オオクボ・アファブレ氏の著書『Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highlands: A Centennial Tribute, 1903-2003』によると、バギオの中心で戦前、商店経営や建設業に従事する日系人がいたという。テルジ・オオクボ氏は、現在バギオの観光名所となっている旧ドミニコ会修道院の大工の棟梁だった。この建物は1915年にカトリック教会のドミニコ会修道院として建設されたが、さまざまな転用を経て、今はバギオ市所有の観光名所となった。噴水のある西欧風の庭や石とコンクリートの建物はヨーロッパの古い修道院を思わせる。このようなヨーロッパ風の荘厳な建築物を当時の日系人大工が建造したことに驚かされる。
日系人の大工は個人の邸宅も建てている。パンパンガ州出身の技師ロケ・ペレド氏の邸宅もそのひとつ。1915年に建てられたこの邸宅の現在のオーナーで、ロケ氏の娘であるオーロラ・カラグアス氏によると、ロケ氏はベンゲット道路やバギオとボントックを結ぶハルセマ道建設時の工事監督だったそうだ。邸宅の建設には日系人大工のほかイゴロットも携わった。木材が惜しみなく使われ、建築様式はバギオの古い住宅に多い米国風コテージハウスに似ている。大きな一枚板の木材を使った見事な階段や、100年経った今でも隙間がほとんどない床板に手先の器用な日系人と木材加工を得意とするイゴロットの職人たちの技術を見ることができる。現在、この邸宅は宿泊施設として使われている。

In the beginning of 20th century, a large number of Japanese immigrants lived in Baguio. They were hired to work for the difficult Benguet Road construction project by Major Kennon of the U.S. Army. The construction completed in 1905 and the road connecting Baguio and La Union is now called Kennon Road (formerly the Benguet Road and also known as the Rosario–Baguio Road).
Some Japanese immigrants remained in the Cordillera region after the road project. According to ‘Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highlands: A Centennial Tribute, 1903-2003’ by Patricia Okubo Afable, a grandchild of Teruji Okubo, who was a Japanese carpenter foreman, there were Japanese people working as construction workers and running stores in central Baguio. Teruji Okubo was involved in building the Dominican Hill and Retreat House, which is now a tourist spot. It is a surprise that Japanese carpenters built the magnificent European style convent in early 1900s. Japanese carpenters also built residential houses and Roque Peredo’s residence is one of them.
This American cottage style house was built by Japanese carpenters and the Igorot, a mountain tribe. After over 100 years, you can still see their great craftsmanship in the Roque Peredo’s residence.

ペレド氏の書いた自宅の図面。Building plan of Roque Peredo’s residence drawn by Mr. Peredo.

旧ロケ・ぺレド氏邸は現在宿泊施設ペレドズ・ロッジング・ハウスとして利用されている。バギオ中心からタクシーで約10分。Roque Peredo’s residence is now an accommodation named Peredo’s Lodging House.

ペレドズ・ロッジング・ハウスの床は、100年を経てもほとんど軋まない。The floorboards of Peredo’s house is not squeaky although it is over 100 years old.

急俊な山々を通り抜けるケノンロード(旧名ベンゲット道路)。展望台へはバギオ中心部からタクシーで約30分。Kennon Road view from lookout.

 

ケノン少佐の像。
Statue of Col. Kennon

 

Sagada サガダ
Mountain Province

▲セントメアリー校旧女子寮。サガダバスターミナルから徒約歩5分ほど。旧寄宿舎などセントメアリー教会関連の建物は教会の人に見学の許可を取るか、または外から見学する。St. Mary’s School Female Dormitory old building.

窟探検や崖に棺桶を吊り下げる風習で知られるマウンテンプロビンス州サガダは、キリスト教の教派の中でも聖公会の信仰が盛んな地域とされる。英国国教会の系統である米国聖公会は、1900年代初めの米国統治時代にサガダで宣教活動を始め、教会関連施設の建築を行うにあたり日系人の大工や石工を雇った。
サガダ最大の教会であるセントメアリー教会は、日系人の大工と石工が手がけた。同教会のナオイ神父の話によると、セントメアリー教会は1907年に建築を開始し、1928年に完成した。日系人が建てた初代の建物は第二次世界大戦中に米軍の爆撃によって破壊されてしまい、現在の建物は戦後間もなく再建されたものだという。教会の事務所にある初代の教会建設当時の写真を見ると、1946年頃に再建された教会は初代の建物の特徴を色濃く残していることがうかがえる。石造りの建物に木製の屋根という造りは、宣教団の母国米国の教会の影響が見られる。緻密な石壁や大きな材木を用いた礼拝堂は開放的な雰囲気を持つ。

米国人に信頼された日系人

「宣教団はサガダに教会だけでなく、学校、病院も建設しました。エンジニアでもあり、当時サガダの宣教団を指導していたストントン神父は、コミュニティの心のよりどころであるセントメアリー教会を中心に、子どもに教育を施すセントメアリー校、人々の健康を守るセントジョセフ病院などの施設を十字架の形に配置したのです」と、ナオイ神父は語る。
これらの教会関連の建物も、最初の建物は日系人の手による建築だった。ほとんどは戦争やその後の建て替えられて新しくなっているが、セントメアリー校の旧男子寮と旧女子寮は現存する。この学生寮は交通が不便だった時代に家から学校に通えない子どものためにつくられ、1910年代から80年代まで使われた。今は貸家として使われているようで、建設から100年近く経った今でも現役だ。男子寮、女子寮とも同じ設計で、屋根や外壁も木でつくられている。切妻屋根で縦長の間取りの設計は米国の木造建築の影響を感じさせる。
当時石工の棟梁をしていたトクタロウ・ヤマシタ氏の息子のヘンリー・ヤマシタ氏が、次のような話を聞かせてくれた。
当初ストントン神父はイロコス地方から来た中国人の大工と石工を雇って建設を進めていた。しかし、なかなかはかどらない。そこで彼らに加えて日系人を雇って建設に当たらせてみたところ、建物を完成させてしまった。そこで日系人に建設を任せるようになったという。

Sagada,Mountain Province is where Episcopalian a.k.a. Anglican, with ties to the Church of England, is the predominant Christian. In early 1900s, Episcopal Church in the United States of America missioned in Sagada and hired Japanese carpenters and stonemasons to build churches, school and hospital.
St. Mary the Virgin Church, the largest church in Sagada, St. Mary’s School and St. Joseph Hospital were located to form a shape of a cross. The church was built with stone walls and wooden roof. Most buildings were destroyed during the war and rebuilt. But the original buildings of school dormitories were used until 1980s and still exist as the houses for rent. These buildings are made with wood and resemble early American style homes.

セントメアリー教会の礼拝堂は戦争中、中に日本兵が潜伏していると考えた米軍の爆撃によって破壊された。サガダバスターミナルから徒歩約10分。
Inside St. Mary of the Virgin Church.

(左) セントメアリー校の旧女子寮の内部には学生寮だった歴史の面影が残る。
Inside the female dormitory of St. Mary’s School.
(右) 旧女子寮の外壁。地元の人によると、このような木材加工をできる職人は今、町にはいないという。
Wooden wall of the female dormitory building of St.Mary’s School. It’s difficult to reproduce this wooden wall since few can do the wood processing like this.

トクタロウ・ヤマシタ氏の息子で大工だったメレシオ・ヤマシタ氏の住宅。サガダバスターミナルから観光案内所の前の通りを南へ徒歩約10分。11月から4月頃までの観光シーズンには住宅の一角を改装したおみやげ店も開店。サガダには日系人が家族のために建てた建物も現存し、それらには日本の住宅の影響も感じられる。 Melecio Yamashita’s residence has the influence of Japanese architecture.

家族の写真を見せてくれた日系人トクタロウ・ヤマシタ氏の孫、メレシオ氏の息子のフレッド氏。 Mr. Fred Yamashita, a grandson of Mr. Tokutaro Yamashita and a family portrait.

 

 

 

 

 

 

メレシオ氏宅には日本の家屋のように天井板を切った屋根裏部屋への入り口がある。「父のアイデアで屋根裏部屋をつくった」とフレッド氏。
In Melecio Yamashita’s residence, there is an entrance door on the ceiling to the loft.

 

サガダへの行き方:首都圏ケソン市クバオのCODA Linesバスターミナルからサガダ行き乗車約12時間。またはバギオ経由でGL Transバスのサガダ行き乗車、所要時間約7時間。

 

Besao ベサオ
Mountain Province

 

 

 

 

セントベネディクト教会は戦火を免れ、80年の時を経ても現存している。教会の窓には高度な石材加工、石組みが必要なアーチ構造が用いられている。ベサオ行きバスやジプニーでセントベネディクト教会へ行くことを伝え、セントジェームズ校と教会に続く坂の下で下車、徒歩10分。 St. Benedict Church survived the Second World War and still in the same condition as it was built.

ウンテンプロビンス州サガダの隣、ベサオにも聖公会は1910年代に伝道所を設立し、日系人の大工や石工に教会や学校を建設させた。前出の『Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highlands』には、当時ベサオの教会や関連施設建設の基礎を築いたのは、サガダで教会関連施設を建設したトクタロウ・ヤマシタ氏やマサタロウ・ヨシカワ氏だったと記されている。
ベサオの宣教団は伝道所に続いて、セントジェームズ校を設立。このセントジェームズ校の最初の校舎の大工の棟梁をしていたのが、ヨシカワ氏だったという。セントジェームズ校は現在もあるが、当時の校舎はベサウ宣教団設立100周年の2年後、2012年に火災で焼失してしまった。現在は校庭に基礎の石組が残っているだけである。

国籍を超え共同で建設

現存する石造りのセントベネディクト教会が完成したのは1939年。教会の百年史には建設に当たった大工の棟梁としてサトウという日系人の名前が残っている。父から建設当時の話を聞いていたというベサオの教師シルビア・ユガアン氏によると、サトウ棟梁の下でイゴロットの住民たちも建設に従事していたという。米国人の宣教師によって教会の建設が立案され、日系人の大工と地元の住民との共同作業で建設されていたのだ。
建設から80年もの時を経ているにもかかわらず、石造りのセントベネディクト教会は今もその堅牢な姿をとどめている。建築様式は同じく聖公会が建てたサガダのセントメアリー教会に似ている。教会を見ると石材の表面はタガネで丁寧に削られ、目地は石材同士を緻密につなぎ合わせられていて、当時の石工たちがいかに丁寧に仕事をしていたかを感じることができる。教会では現在ベサオの人々によって毎週日曜日に礼拝が行われ、毎週水曜日にはセントジェームズ校の学校礼拝にも使用されている。

Episcopal Church established a missionary facility in Besao, Mountain Province in the 1910s and commissioned Japanese construction workers to build churches and schools.

Some Japanese names have been recorded in books; Masataro Yoshikawa, a carpenter foreman for building St. James School and Sato (Surname only), a carpenter foreman for St. Benedict Church. Under Sato, there were Igorot workers. American missionaries, Japanese and Igorot workers collaborated to build the church.

The stone-built St. Benedict Church still exists since it was built in 1939. The surface of stone walls was neatly leveled and stones were precisely connected. It is obvious that skilled and seasoned workers were involved in the project.

丁寧に加工されたセントベネディクト教会の石壁。Well Crafted Stone Wall of St. Benedict Church.

セントジェームズ校の現在の校舎。2012年に旧校舎に代わり、同窓生たちの寄付によって建築された。手前に日系人の大工が施工したとされる元の校舎の跡も見える。St. James School was rebuilt in 2012 after it was destroyed by fire.

ベサオへの行き方:首都圏ケソン市クバオのCODA Linesのバスターミナルからサガダ行き乗車約12時間。サガダからはバスまたはジプニーで40分。またはバギオ経由GL Tranceバスの ベサオ行き乗車、所要時間約8時間。※サガダとベサオ境界は共産党軍事部門新人民軍(NPA)の活動により徒歩での移動は危険な場合がある。

 

【取材を終えて】

100年前、日系人は多様な共同体の中で生きていた。

昭和の文豪・織田作之助の作品に『わが町』(岩波文庫)という短編小説がある。主人公「ベンゲットの他あやん」こと佐渡島他吉の半生を描き、彼の視点は労働者としてフィリピンにやってきた日本人の心情を生き生きと映している。経済難の日本を抜け出し、異国の地で懸命に働く日本人。彼らの姿は、第二次世界大戦前後に兵隊としてフィリピンにやってきた日本人のイメージとは違う。私は「日系人の足跡を追ってみたい」という思いから、当時多くの日系人が建設業に従事していたことに着目し、彼らの建てた建築物を巡ることにした。
そして、日系人の建てた建物を巡るにつれて、ある事実に気がついた。それは日系人が手がけた建物は米国人、フィリピン人等の建築家によって設計され、日系人は大工や石工といった職人として名前が残っていることだ。『わが町』で描かれているように、日系人が米国人やフィリピン人ができなかった工事を代わりにやってのけた、というよりも日系人が米国人やフィリピン人と共に働いていたという姿がイメージできる。
日系人たちが残した建築物は、100年前のルソン北部にすでに、日米やフィリピン、アジアの人々が共に働き、生きた時代があったことを、今を生きる私たちに教えてくれる。
Postscript:A Diverse Community in North Luzon 100 Years Ago
I happened to know that there were Japanese immigrants in Benguet 100 years ago when I read a Japanese novel ‘Waga Machi (‘My Town’ in English)’ by a Japanese author Sakunosuke Oda, which was made into a movie in 1956. I was interested in the fact that they were construction workers and keen on tracing their building works. While visiting the buildings and interviewing people, I found different ethnic groups such as Filipinos, Americans, Japanese, worked together at that time. The historic architecture tells us there was already a diverse community in North Luzon over 100 years ago.

 

高橋 侑也
Yuya Takahashi
1996年 宮城県仙台市生まれ。東京農大卒。2018年よりバギオを拠点とする環境NGOコーディリエラ・グリーン・ネットワーク(CGN)インターンとして活動。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ナビマニラ2019年12月号巻頭企画)