「小説家を超えた比類なきブランド」 村上春樹研究 アローナ・ゲバラ教授インタビュー 

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2024年1月5日

国境を越え、世界中で愛される日本人小説家村上春樹。独特の世界観を持ち、また翻訳家としても知られる彼について長年研究しているのが、アテネオ・デ・マニラ大学のアローナ・ゲバラ教授だ。村上春樹研究とは何か、なぜ彼の作品が日本人のみならず世界各国の人々を惹きつけるのかを聞いた。(取材・文:荒田玲音)

 

 

アローナ・ゲバラ教授 Dr. Alona U. Guevarra
アテネオ・デ・マニラ大学英米文学科教授。フィリピン大学ディリマン校英米文学部を最優等位で卒業、アジア学修士号、比較文学博士号を取得。オーストラリア国立大学、シンガポール国立大学、上智大学、京都大学、香港中文大学や東京大学等で特別研究員を務める。専門分野は、村上春樹、韓流、韓国文学。現在のお気に入りの村上春樹作品は『1Q84』、『騎士団長殺し』。

 

 

 

村上春樹との出会い

 

 

 1995年、大学生のときに奨学金制度に応募し、東京大学に留学しました。私の当初の専攻は英語学でしたし、東大での講義は全て英語だったので、当時日本語や日本文学についての知識はゼロでした。あるクラスで、英語で日本文学を勉強する講義があり、そこで初めて村上春樹を知ったんです。しかしそのときは村上よりも吉本ばななの作品に惹かれ、彼女の作品について論文を書きました。

 

 

 留学も終盤にさしかかり、時間に余裕ができたころ、先に帰った留学生が置いていった本を読むことにしました。それが村上春樹の『羊をめぐる冒険』の英訳版でした。これに大変衝撃を受けて、文学に対する自分の考え方が変わったんです。フィリピンに帰国後、日本留学の経験を無駄にしたくないとの思いから、フィリピン大学ディリマン校で修士、博士課程へと進んだのですが、修士、博士ともに論文は村上春樹をテーマに書きました。

 

 

なぜ村上春樹は世界中で人気なのか

 

 

 村上の作品は、常に安定した人気があります。それは、通常の世界とは少し異なった、不思議の国に迷い込んだかのような世界観、そしてストーリーが巧みで中毒性があることが理由に挙げられると思います。

 

 

 また、その文体は「村上春樹ブランド」とでも呼ぶべきものとして確立され、高く評価されています。特に人物像の描写に長けていて、非常に細かいところまで描かれています。そして、たいてい主人公や登場人物は何かしらの闇を抱えていることが多い。読み始めは「平々凡々で、何か暗いしつまらない主人公だな」なんて思っていても、やがて自分との共通点が見えて来たり共感できる部分が多くあったりするんです。そういう面で、国籍に関係なく人々が自分自身を投影できるような登場人物を書くのが上手だと思います。

 

(Wikimedia Commons CC-BY-2.0 Benzoyl)

 

 

フィリピンにおける村上春樹

 

 

 フィリピンでは日本や他の国と違って本の販売部数を公表しません。ですから実際にどれくらい読まれているのかを判断するのは難しいのですが、ケソン市クバオにあるナショナルブックストアによれば、一番売れている作品は『海辺のカフカ』だそうです。

 

 フィリピンに限らず、世界的にも日本の印象は良い。そんな日本人気も「日本人小説家」である村上の作品が世界中で読まれている1つの要因となっていると言えるでしょう。

 

 

 また村上の作品全体における性的表現や、日本でベストセラーになった『ノルウェーの森』の年齢差がある男女の恋愛についてなども、当時のフィリピン人にとって驚きだったことが、社会の変化とともに今は受け入れられやすくなっている面もあると考えられます。

 

 私が個人的に好きな作品の1つは『騎士団長殺し』。作品に出てくる絵画の名前がタイトルになっているのですが、これがマニラの国立美術館に展示されているフィリピン人画家フアン・ルナが描いた巨大な絵画『スポリアリウム』を思い起こさせるんです。これをテーマに、研究論文を進めようと思っています。

 

 

村上作品の影響力

 

 

 村上作品に登場する人物は、みな孤独を抱えています。日本社会には「こうあるべきだ」という概念やプレッシャーが強くあると思うのですが、彼の作品の登場人物は、だいたいその概念に沿えず、孤独を感じている。インターネットの普及によるコミュニティ文化の減少やコロナのパンデミックの隔離経験により、少なからず孤独を感じた人々は、登場人物に感情移入や共感をせざるを得ないのでしょう。

 

 

 小説家の中にも、村上の熱心なファンが存在します。例えば韓国では、新作が発表されると1カ月も経たないうちに翻訳版が出版されるほど村上人気は高いのですが、韓国の小説家で村上に大いに影響されたいわゆる「村上チルドレン」と呼ばれるのが、キム・ヨンハ(金英夏)です。彼のように、村上に影響されたと語る小説家がいるほど、村上の影響力は大きいと考えられます。

 

 

 

村上春樹研究とは

 

 

 日本の主唱者として見られることもある村上春樹の現代日本文学を通して、日本文化や伝統を学ぶことが研究の目的の1つです。村上の作品は、日本について知るための、一種のアクセスポイントとなっています。

 

 

 村上が若かったころはインタビューで日本文学について好意的に語ることはあまりなかったので、彼が「日本文学の代表」と呼ばれるのは少々皮肉なことではありますが。しかし、初期の作品と近年の作品を比べてみると、まるで別人が書いたかのように雰囲気が異なり、村上なりに世界からの注目度や読者層の幅広さを考慮したうえで執筆するようになったことが伺えます。ある意味、小説家として成長したとも言えるでしょう。実際の授業では、村上の作品を通して、どのような日本が描かれているか、今まで知らなかった新たな日本を発見できるかを議論します。

 

 

 村上の作品はもちろん全作日本語で書かれていますが、英語で研究するからこその強みもあると思っています。翻訳者としても活動し、英語が堪能な彼は、自分の作品の英訳者は自分で選びます。そして英訳された作品を自ら確認をして、翻訳者に意見を言うことができる。これが他の日本人小説家と決定的に異なる点で、村上だからこそできることです。

 

 村上春樹は、日本語よりも英語でのインタビューの方をより積極的に受ける傾向にあり、彼自身を表現する際の表現の仕方が英語と日本語では変わってきます。そういう点でも、英語で村上を分析するのはおもしろい。村上の作品や、彼の本を通して見る日本社会、また村上自身についての研究テーマで1冊の論文が出来上がるぐらい、彼は研究しがいがあります。ロシアの文豪トルストイのレベルに匹敵するといっても過言ではないでしょう。さらにフィリピン人の視点から村上作品をどう思うか、日本文化をどうとらえるかということを考えるのも興味深い分析になります。

 

 

おすすめの村上作品

 

 

 少し前でしたら、迷わず『羊をめぐる冒険』をすすめていたと思いますが、今のZ世代(1990年代半ばから2010年序盤生まれの年齢層の若者)にすすめるなら、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ですね。友情をテーマにした作品で、アイデンティティーの構築や葛藤が語られており、若い世代に響くと思います。

 

 

 また、『アフターダーク』は村上作品を初めて読む人向きです。『1Q84』は村上をさらに有名にしたヒット作でありつつ、珍しく女性が中心となっている作品で、これも外せません。ただどの作品も、村上ならではの「不思議の国」要素が含まれているので、独特の世界観を楽しめるでしょう。 

 

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