【マニラ像めぐり】アンドレス・ボニファシオ

この記事をシェア

2024年5月30日

 

LRT1号線セントラル駅構内にあるアンドレス・ボニファシオ像(Andrés Bonifacio, 1863~1897)。名前の下にはフィリピン語で「フィリピン革命の父」と書かれている。

 

 

貧困層出身の苦労人
読書で教養を身につける

 

 前回のホセ・リサールと同様、フィリピンの英雄として知られるのがアンドレス・ボニファシオ。別名「フィリピン革命の父」と呼ばれ、アジアで初めてヨーロッパの植民地政策に対して革命を起こしたリーダーの1人である。

 


 マニラ市トンドのスラム街で生まれ育ったボニファシオは、一部資料では幼いころに両親を亡くしたという説もあり(真偽は定かではない)、恵まれた幼少期を過ごしたとは決していえない。また、これまで本連載で扱った像になっている人物の多くは高学歴だが、ボニファシオは教育を受ける機会に恵まれなかった。一方で家計を支えるために働きながら読書に励み、フランス革命についての本や、米国大統領の自伝、ホセ・リサールの代表作『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』や『エル・フィリブステリスモ(反逆・暴力・革命)』などを読んだ。タガログ語とスペイン語に加えて、英国企業でメッセンジャーとして働いていたことから少々の英語も話すことができた。

 

 

目指すは改革? 否、独立
最期まで立ち向かった革命の父

 ホセ・リサールによって1892年に結成された社会的改革を目指す同盟「ラ・リガ・フィリピナ」に参加したボニファシオ。しかし最初の会合直後にリサールが逮捕されてしまったことにより、同盟はすぐに解散してしまう。残されたボニファシオやその他のメンバーはなおもスペイン当局に対する抵抗を続け、リサールのミンダナオ島への流刑が発表された翌日に「KKK」として知られる秘密結社「カティプナン」を設立した。カティプナンは主に労働者階級のメンバーで構成され、植民地政府に対して武力を行使して抵抗。その影響力はフィリピン各地の地域に及び、マニラだけでなくルソン地方中部、ミンドロのパナイ島、ミンダナオ地方などにも支部が置かれた。

 


 反植民地支配の勢力としてスペインに立ち向かっていたボニファシオ率いるカティプナンであったが、次第に内部で対立が発生するようになった。貧困層出身のボニファシオに対し、良家の出身者であるエミリオ・アギナルド率いる独立派内部は異なる革命思想を持ち、最終的に多数派となったアギナルド派に全権を握られることとなった。これを認めず新たな革命を推し進めようとしたボニファシオは、革命政府の指導者となったアギナルドの命令によって逮捕され、1897年に死刑宣告を受け、5月10日に銃殺された。33歳だった。

 

 

 ボニファシオの誕生日11月30日はフィリピンの祝日となっている。

 

 

 

(初出まにら新聞4月2日号)

 

 

 

 

 

Advertisement