【マニラ像めぐり】アーセニオ・H・ラクソン

この記事をシェア

2024年5月8日

 

マニラ市ロハス大通りのマニラ・ベイウォークに設置されているアーセニオ・ラクソン像(Arsenio H. Lacson, 1912~1962)

 

 

 

 

アスリートからジャーナリスト
国民の人気を得て政界へ

 

 

 

 1912年に西ネグロス州タリサイ市で生まれたアーセニオ・ラクソンは、病気がちな少年だった。10歳のころにマニラに引っ越し、アテネオ・デ・マニラ大学に進学したラクソンはスポーツに目覚め、活発な青年となる。サッカーのフィリピン代表選手となり、アマチュアボクサーとしても活躍。けがで曲がってしまった鼻は、後の政治家時代に彼のトレードマークとなった。

 


 サントトマス大学で法学を学び司法試験に合格したラクソンは、ビセンテ・フランシスコ上院議員の法律事務所で働き、その後司法省で司法次官補を務める。また第2次世界大戦開戦前まで地元紙のスポーツライターとしても活躍した。

 

 


 戦後もジャーナリストとしてのキャリアを継続し、自分のラジオ番組を持つようになった。ラクソンは、当時のマニュエル・ロハス大統領のことを「泣き虫マニー(Manny The Weep)」と呼んで、怒りを買ったことで放送中止命令が出されるなど、政府高官たちに対して歯に衣着せぬ発言をすることで国民から人気を得た。そして1949年、下院議員に当選し、政界入りを果たした。

 

 

 

毒舌のマニラ市長
マニラ市を大改革

 

 


 メディアで「最も活躍する下院議員10人」に選ばれるなど、政治家としての才能を開花させたラクソンは、1951年にマニラ市長に当選する。1949年にマニラ市憲章が改訂されるまで、市長は指名制だったため、市長選によって選ばれた市長はラクソンが初めてである。後に1955年、1959年と2度再選し、3期務めた。

 


  当時、マニラ市は2,350万ペソもの借金を抱えていた。しかしラクソンは着任から3年で借金を半分にまで減らし、1959年にはマニラ市は大幅な財政黒字を出すまでに改善。そして任期中に市立病院や市立大学、地下道、マニラ動物園などを建設した。

 

 


 市長職をこなしつつラジオ番組も続けていたラクソンは「毒舌な善人(a good man with a bad mouth)」と呼ばれ、国内および国際問題について厳しく切り込み続けた。たびたび発言に現れる汚い言葉遣いを編集でカットする必要があったため、番組は事前収録したものを放送していたという。

 

 


 その人気ぶりから、1965年の大統領選での当選が期待されたが、1962年に滞在先のホテルで冠状動脈血栓症による心筋梗塞で倒れ、49歳で人生に幕を閉じた。

 

 

 

(初出まにら新聞2024年2月20日号) 

Advertisement