【マニラ像めぐり】フェルナンド・ポー・ジュニア

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2024年3月4日

2012年にロハス通りに建てられたフェルナンド・ポー・ジュニア像(1939~2004)。式典には妻のスーザン・ロセスと娘のグレース・ポーが参列した

 

 

会社の使い走りから
国民的アクションスターへ

 

 

 「FPJ」の愛称で親しまれたフェルナンド・ポー・ジュニアは、映画部門のナショナル・アーティストとして登録される国民的アクションスター。本名をロナルド・アラン・K・ポーといい、俳優、映画監督、プロデューサー、脚本家、さらに政治家として活躍した。アクションスターとして1955年から2003年の間に300本の映画に出演し、多方面で成功した功績を称えて「ザ・キング」と呼ばれた。

 

 FPJは、同じく俳優で監督だったフェルナンド・ポー・シニアの息子として1939年にマニラで生まれる。父の死後、家族を支えるために学校を退学し、映画業界で使い走りとして働き始める。翌年にはスタントマンとしての役をもらうようになり、16歳のとき『アナック・ニ・パラリス』で初めて主役を演じた。この作品はヒットはしなかったが、1956年の『ロー・ウエスト・ギャング』で一躍スターになった。フィリピンと米国で共同制作されたFPJ出演の戦争映画『ラベジャーズ(破壊者)』はフィリピン映画史上もっとも影響力のある映画の一つと言われる。

 

 

最も稼ぐ映画俳優
大統領選に挑む

 

 

 1961年には映画製作会社FPJプロダクションを設立する。フィリピン4大映画賞の1つ、FAMAS賞(Filipino Academy of Movie Arts and Sciences Awards)では、5本の作品で主演男優賞を受賞し、最多記録を持つ。80年代のフィリピンで最も稼ぐ映画俳優と言われ、1作品の出演料は100万ペソ以上だったという。

 

 2004年には大統領選に出馬したが、グロリア・マカパガル・アロヨ候補に100万票差を付けられて敗北。同年12月14日にケソン市で永眠。65歳だった。そして8年後の命日にマニラ市エルミタのロハス通りに像が建てられた。

 

 

(初出まにら新聞2023年12月19日号)

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