【マニラ像めぐり】ガブリエラ・シラン

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2024年6月20日

 

アヤラ・アベニューとマカティ・アベニューの交差地点にあるガブリエラ・シラン像(Gabriela Silang, 1731~1763)。ホセ・メンドーサによる彫刻作品として1971年に完成した。

 

 

実業家と結婚するも死別
再婚相手は反乱軍闘士

 

 マリア・ホセファ・ガブリエラ・カリニョ・デ・シラン、一般にガブリエラ・シランと呼ばれる女性は、南イロコス州サンタ町バランガイ・カニオガン出身の独立運動を率いた指導者で国家の英雄の1人である。

 


 父方はスペインから来たガリシア人の移民、母方はアブラ州の原住民族ティンギアン人というバックグラウンドを持つ。幼少期に親元を離れ、修道院学校で学んだシランは、司祭によって育てられた。司祭による手引きで裕福な実業家ドン・トマス・ミランと1751年に結婚したが、その3年後にミランは老衰で息を引き取った。

 

 


 1人目の夫を失くし未亡人となったシランは、反乱軍の指導者であったディエゴ・シランと出会う。賢く勇敢で、フィリピン人のために戦うディエゴに惹かれた彼女は1757年に再婚し、ディエゴ率いる反乱軍に参加するようになる。

 

 


 1762年、英国とスペインの間で勃発した七年戦争の中で、英国はマニラを占領。ディエゴはイロコスでスペイン人役人を打倒し、スペインに対する武装闘争を始めようとした。彼は英国と手を組み、イロコス州知事に任命された。ガブリエラはディエゴの顧問のひとりとなり、非公式の副官となった。また、夫と英国との協力関係においても重要な役割を果たした。

 

 

 

暗殺された夫の遺志を継ぎ
将軍としてスペインと闘う

 

 順調に思われた夫ディエゴの武装闘争だったが、スペイン当局が報酬付きで地元フィリピン人を雇い、スペイン側に寝返った仲間によって、ディエゴは1763年に暗殺された。身の危険を感じたシランは、アブラ州の叔父の家に一時避難する。しかし夫の遺志を継ぎ、今度は彼女自身が指導者として革命を続けることを決心。次第に多くの支援者を獲得し、「へネララ(女性将軍)」の愛称で親しまれた。まずは自分の故郷であるサンタ町から攻め、母親の出身地であるピディガンも抑えた。

 


 その後、同様に夫の軍を引き継いでいたディエゴの叔父と結託し、ビガンへ攻め入った。いくつかの戦いでは勝利を収めたものの、多くの犠牲者を出し、最終的にスペインの勢力に圧倒されてしまったシランらは、アブラの山奥で捕らえられてしまう。そして1763年9月20日、シランはビガンのセントラルプラザで公開処刑された。

 

 

 

(初出まにら新聞2024年5月7日号)

 

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