ロハス通り沿いに建つホセ・P・ラウレル(Jose P. Laurel)像。勇ましい表情と身構えが印象的。

 

 

富裕層出身、留学経験
エリートコースまっしぐら

 

 政治家、法律家、裁判官だったホセ・パシアノ・ラウレル・ガルシアは、1891年にバタンガス州タナウアン市の裕福な政治家一家に生まれた。1915年にフィリピン大学法学部を卒業。1919年にはサントトマス大学で法学修士号を取得し、奨学金を得て米国イェール大学法科大学院博士課程を修了する。その後米国やヨーロッパを旅しながら、オックスフォード大学やパリ大学などで国際法を学んだ。

 

 

 1921年にフィリピンに帰国し、暫定内務次官となる。さらに翌年には内務長官に抜擢される。しかし米国人レオナード・ウッド総督と度々衝突し、他の閣僚たちとともに抗議の意を示して辞職。この対立が、ラウレルの国家主義者としての資質を高めることとなった。

 

 

 

上院議員から判事
そして大統領へ

 

 

 1925年に上院議員に当選。一時政界を離れるものの、1934年には再び公職に就き、1935年の憲法制定会議の代議員に選出された。 1935年に憲法が批准され、マヌエル・ケソンを初代大統領とするフィリピン独立準備政府(フィリピン・コモンウェルス)が成立すると、最高裁判所判事に任命された。太平洋戦争勃発後は、日本の軍事政権に協力。そして1943~45年の2年間、大統領となったが、当時フィリピンは日本の軍政下でフィリピン第二共和国として存在していたことから、後のディオスダド・マカパガル大統領政権で、ようやく正式に第3代大統領として認められることとなる。

 

 

 

大統領としての評判と
最高裁判事としての評価

 

 

 ラウレルが大統領であった期間は、フィリピン史上最も物議を醸した政権と言われる。日本敗戦が濃厚になったころに山下奉文大将の助言で台湾に亡命し、日本降伏の8日後に、フィリピン第二共和国の消滅を宣言した。連合国最高司令官マッカーサーの命令により戦犯指定され、横浜刑務所に2カ月間、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に10カ月間収監された。

 

 一方で、最高裁判所での任期中には、今日に至るまで分析される代表的な判例を残し、フィリピンの歴史上最も重要な最高裁判事の一人としても知られている。

 

 

(初出まにら新聞2023年12月12月5日号)