【マニラ像めぐり】レガスピ&ウルダネータ

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2024年4月30日

ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(左・Miguel Lópes de Legazpi, 1502~1572)とアンドレス・デ・ウルダネータ(右・Andrés de Urdaneta, 1508~1568)。バレリアーノ・ウェイレル総督によって建設が依頼されたのは1891年だったが、実際に完成したのは1929年。2016年に国の重要文化財に指定された。

 

 

  マニラ市イントラムロスの塀のすぐ外に、高くそびえる像がある。それがレガスピとウルダネータの像だ。白い立派な柱のような台座にフィリピンの初代総督として知られるミゲル・ロペス・デ・レガスピが向かって左に、そして船乗り、探検家であり聖アウグスチノ修道会の修道士でもあったアンドレス・デ・ウルダネータが右に立っている。

 

 


 レガスピは左手で旗を掲げ、前方に伸ばした右手に持っているのは巻物とされる。ウルダネータの像は、修道士らしく右手で十字架を掲げ、左手で聖書と思しき本を抱えている。柱の上で堂々とした出で立ちのレガスピとウルダネータの下に右手を挙げて腰かける女性が1人いる。彼女はいったい何者なのか記されていないが、「母国」を象徴しているという説がある。

 

 

 

征服者と修道士
フィリピンへの航海

 

 

 

  当時のスペイン王フェリペ2世の命令により、ともに航海することとなったレガスピとウルダネータ。レガスピを指揮官とし、レガスピは自身のサン・パブロ号で、ウルダネータはサン・ペドロ号でそれぞれスペインからフィリピンへと出航した。出航前、これまでの経験と技量からウルダネータを指揮官とする命令がフェリペ2世によって出ていたが、ウルダネータは指揮官になることを辞退し、アドバイザーとして乗船。代わりにレガスピを指揮官に推薦した。

 

 


 1565年2月にフィリピンのサマール島に到着し、島を治めていたダトゥ・ウラロとレガスピは、友好の印としてお互いの手を切ってその血を酒に入れて飲む「血の盟約」を交わした。その後ボホール島のダトゥ・シカトゥナとも血の盟約を交わした。これにより、ポルトガルによる奴隷狩りの影響で警戒心を強めていた現地民が多かった中でも、レガスピ一行は島々の探索を続けることができた。最終的に一行は、セブ島に要塞を築き、滞在地とした。食料が豊富であったこと、中国との貿易のための商業本部があったこと、そしてアメリカ大陸やカリブ海などのスペイン副王領(ヌエバ・エスパーニャ、ニュースペイン)へ行く際の出発点として適しているというウルダネータの助言があったことが理由である。

 

 

 

教会、イントラムロス建設
フィリピン統治に功績残す

 

 

 ウルダネータはフィリピンで最初の教会、聖ビタレス教会とサント・ニーニョ教会を設立し、セブで最初の教会長を務めた。しかし復路開拓の目的もあり、1565年の7月にはレガスピはウルダネータをスペインに戻らせた。一方、自身はフィリピン残留を決意。無事スペインに帰還したウルダネータは地理学者および航海士として名を高め、レガスピはフィリピン開拓を推し進めた。

 

 


 レガスピ本人は高齢であったことと健康面に問題があったためセブ島に残留し、副官であったゴイティとサルセドを北に向かわせた。後に2人がマニラを征服したことを聞き、後を追って1571年にマニラに到着。城壁都市イントラムロスを建設し、マニラを首都としたフィリピンはスペイン政府の領土になったことを宣言、そしてフィリピンの初代総督となった。

 

 

 

(初出まにら新聞2024年2月6日号)

 

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