日本の音楽グループのケツメイシが今年の1月31日に公開した「海外駐在員への唄」のミュージック・ビデオ 、もうご覧になりましたか? フィリピンへ赴任した駐在員がタガログ語を勉強したり、民族衣装のバロン・タガログを着たり、実演販売をしたりしながらだんだん現地の人々に受け入れられ販路を拡大する姿に日本で働く同僚も励まされるという様子をお笑いコンビ「ザ・マミィ」が演じており、共感を誘うと話題になっています。この動画の中で駐在員(酒井貴士)が販路を作ろうしているのが “SABA”と書かれたサバの缶詰です。

 

 

 

 

 もちろんこれは撮影用の設定にすぎず、フィリピンにはSABAというローカルブランドのサバ缶が実在するので、わざわざ日本人駐在員が販路を模索する必要はありません。また、フィリピンのスーパーへ行くとSABA以外にも様々なブランドのサバ缶やイワシ缶がズラリと並んでいます。特にイワシのトマトソース煮の缶詰にはなぜかHakoneとかNagoya、Hokkaidoといった日本を連想させるブランドがあり、実は筆者も不思議に思っていました。

 

マカティのスーパーマーケットで売られていたイワシ缶とサバ缶

 

缶詰の歴史

 

 缶詰の歴史はナポレオン・ボナパルトの時代に遡ります。当時、兵士達の遠征用の食料保存の方法を模索していたフランス政府が1810年にアイデアを公募しました。その懸賞に応募したのが料理人・菓子職人だったニコラ・アペールで、食品を瓶詰にする保存方法を考案して入選したと言われています。その後アペールの友人が魚の缶詰を考案、製造し、後にアメリカへも輸出されるようになります。同じ頃イギリスではピーター・デュランドが缶詰の特許を取得し、その技術を応用したものが世界中に広まっていきました。

 

 

   1840年にスペイン沖でフランスの船が沈没すると、スペイン人がその積み荷であったイワシ缶を拾ってそれを研究し、そこからスペインやポルトガルで魚の缶詰の製造が始まったとされています。フィリピンにはどのようにして魚の缶詰がたどり着き、一般的になったのかはわかりませんが、ちょうどその当時フィリピンはスペイン領だったので、スペイン人が持ち込んだと考えるのが自然でしょう。

 

 

魚の缶詰と言えば日本?

 

 日本では1871年に長崎の松田雅典がフランス人の指導によりイワシのオイル漬けの缶詰を試作しました。1877年には北海道でアメリカ人の指導のもと、サケ缶の製造が始まり、それ以降、戦前、戦後を通じ魚介類の缶詰が海外へ輸出されましたが、1977年頃の200海里漁業専管水域制定をきっかけに、日本の遠洋漁業と水産加工業が衰退しました。ちょうどその後1980年頃からフィリピンで次々とイワシやサバの缶詰が作られるようになったのは、その影響があったのかもしれません。前述のように日本を連想させる名称が付けられたのは、1970年代半ばまでは魚の缶詰と言えば日本、という印象があったからなのでしょう。

 

 

 1980年代にはテシー・トーマスという喜劇俳優が、着物を着て、日本人っぽい喋り方を真似た「サクラ・ビチュビチュ」という芸者の役をテレビで演じて一世を風靡しました。HakoneブランドではCMに彼女を起用、 “Sardinas ini!”(ビサヤ語で「これはイワシですよ!」)というセリフが流行しました。当時はその他のブランドでも同様に日本を意識した広告が作られることが多かったそうです。

 

 

 またツナ缶の国内シェアの80%以上を誇るセンチュリー・パシフィック社の創業者のリカルド・ポ―氏は1970年代に日本向けにエビを販売していたときに、日本人から「フィリピンではマグロがたくさんとれる。それで何かできるのでは」と言われたことがきっかけで、ツナ缶を作る工場を設立したのだそうです。後にイワシ缶の販売を決めたときには他社と一線を画すため、わざと日本を連想しないブランド名として「555」と名付けたとのこと。このように魚の缶詰一つとっても、日本とフィリピンの関わりや歴史が見えてくるのは面白いですね。

 

 

 

文:デセンブラーナ悦子 日英・タガログ語通訳。大阪外大フィリピン語学科卒。在学中にフィリピン大学に交換留学。フィリピン人男性と1992年に結婚後マニラ在住。

Twitter:フィリピン語ミニ講座@FilipinoTrivia

 

 

 

 

(初出まにら新聞2024年2月17日号)