ラモン・マグサイサイ賞財団の建物の前に建ち、ロハス通りからマニラ湾を眺める姿のラモン・マグサイサイ(Ramon Magsaysay, 1907~1957)像。側面には制作者のフィリピン彫刻家F.B.カエドの名前と竣工日を示す「F.B. Caedo 2/28/99」の文字が彫られている。

 

 

バスの整備士から
政治家へ転身

 

 

  歴代大統領たちの像とともに、マニラ市エルミタのロハス通りに建つのは、第7代大統領のラモン・マグサイサイの像だ。マグサイサイは上院議員以外から初めて大統領に選出された政治家である。マラカニアン宮殿を一般公開するなど、大衆にとって親しみやすい大統領だったといわれる。大統領就任の宣誓式の際に、バロンタガログを着た初めての大統領でもある。

 

 1907年にサンバレス州イバ町で生まれたマグサイサイは、マニラに上京してフィリピン大学へ進学。そこで機械工学を学んだ。後にホセ・リサール大学に編入、商学部を卒業後、バス会社で整備士として働いた。

 

 戦時中の兵士経験を経て、1946年に自由党の下院議員として当選、政界入りを果たす。その後の1949年の選挙でも再び当選し、前回の期同様、下院国防委員会委員長を2期連続で務めた。

 

 1950年には当時のキリノ大統領により国防長官に任命され、武力行使によるフクバラハップ(フィリピン共産党勢力下にあった抗日組織)の弱体化や人里離れた地域への支援によって、国民の支持を獲得した。

 

 

 

大統領として手腕発揮
任期中に非業の最期

 

 

 1953年の大統領選でキリノ大統領に圧勝し、第7代大統領に就任する。小作農への土地の分配や米国との貿易協定、サンフランシスコ平和条約第14条に基づき賠償金を含めた日本との協定の締結などの実績を挙げた。当時の反共軍事同盟である東南アジア条約機構(SEATO)への加入、比米相互防衛条約の締結をしたのもマグサイサイ政権である。

 

 マグサイサイは1957年3月にアメリカ極東陸軍(USAFFE)退役軍人総会と大学3校の卒業式に出席するため、マニラからセブ島へ向かう途中、大統領機の墜落事故で亡くなった。任期を終える数カ月前であったため、当時のカルロス・ガルシア副大統領が大統領を務めることとなった。

 

 死の1カ月後には、マグサイサイの国家統治における誠実さ、勇気のある奉仕、民主主義社会における現実的な範囲での理想主義など、模範となる人物像を記念してラモン・マグサイサイ賞が設立された。 アジアで社会貢献に尽くした個人・団体に贈られ、「アジアのノーベル賞」とも呼ばれている。

 

 

(初出まにら新聞2024年1月9日号)