【マニラ像めぐり】マキシモ・V・ソリベン

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2024年5月13日

 

マキシモ・V・ソリベン像(Maximo V. Soliven, 1929~2006)。像の台座部分には、「自由の象徴。恐れを知らないジャーナリスト」と記されている。

 

 

 

生粋のアテネアン
ジャーナリストの道へ

 

 

 マニラ市エルミタのマニラ・ベイウォーク沿いでパイプを手に、そばに置かれたタイプライターや書物と一緒に立つ像は、ジャーナリストのマキシモ・V・ソリベン。1929年にエルミタで生まれたソリベンは幼いころから書くことが好きで、13歳のころに始めた詩作は21歳まで続けた。英語が第一言語であったが、その他ラテン語、スペイン語、イロカノ語を話した。

 

 


 小学校から大学までアテネオ・デ・マニラで学んだ生粋のアテネアン。戦後の改修でアテネオ大が一時閉鎖されていたときには、日本の専門学校で日本語やタイピング、速記などを学んだ。

 

 

 法律を学ぶことも好きだったソリベンは、当初法律家になることを志したものの、父親の遺言に従い、文筆の才を磨き続けた。大学在学中には学内新聞「The GUIDON」の編集長、さまざまな大学の学生出版人が集う「カレッジ・エディター・ギルド(College Editors Guild)」でも1949~50年に副会長を務めた。そして、20歳のときにカトリック系新聞「ザ・センチネル(The Sentinel)」に入り、本格的にジャーナリズムの道に進むこととなる。

 

 

数々のメディアを経て
「フィリピンスター」設立

 

 

 25歳になると、高校時代の友人の父親が発行人だった「マニラ・クロニクル」に転職。警察や政治担当の記者として働いた。1957年には「マニラ・タイムズ」に移り、ビジネス面の編集者として名を馳せる。そして「イブニング・ニュース」の発行人が辞任したことに伴い、ソリベンが新たな発行人として就任。32歳の若さで発行人となったソリベンを、当時51歳だった「マニラ・デイリー・ブレティン」の発行人ハンス・メンジは「ボーイ・パブリッシャー」と呼んだ。後に「マニラ・タイムズ」へと戻ったソリベンは、ベトナム戦争やインドネシアの9月30日事件などアジア各国のニュースを取材し、さまざまなメディアに寄稿した。

 


 マルコス元大統領による戒厳令施行直後、最大の政敵と呼ばれたベニグノ・“ニノイ”・アキノ元上院議員とテレビ共演すると、その番組で行われた議論内容に軍の極秘計画が含まれていたことからソリベンは投獄されてしまう。

 

 

 70日後に解放されたソリベンは、雑誌記者やコラムニストを経て、新たな英字新聞社「フィリピン・スター」をベティー・ゴー=ベルモンテと共同で設立。競争の激しい新聞業界において、ソリベンの人気コラム「バイ・ザ・ウェイ(By The Way)」掲載をきっかけに読者の信頼を得るようになり発行部数を伸ばした。ソリベンは77歳で亡くなる2006年11月24日まで、「フィリピン・スターの発行人」であり続けた。

 

(初出まにら新聞2024年2月27日号)

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